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東京2020オリンピックSIDE Bの誤謬

SIDEAに続き、SIDEBを配信鑑賞。
観終わっての第一印象は、誠に残念な思い、これに尽きる。河瀨直美は監督として、このたびの東京オリンピックに関与したことで渦中の人となってしまった現況を脱する大きなチャンスを逃した。そう思う。
SIDE Bは、SIDE Aで描き切れなった東京オリンピック2020の、理不尽さ、不興の根幹をあぶりだすべきだったのに、少なくともそうした着想はあったのではなかと拝察されるのだが、関係者のひとりとしてのお座なりなエクスキューズの域にとどまり、ドキュメンタリー映画としての使命を果たしていない。以下、いささか長くなるが、そのように評さざるを得ない理由を記す。
個人的に高く評価する五輪記録映画は1968年フランス、グルノーブルでの冬季オリンピックを追いかけたクロード・ルルーシュ(公式にはフランソワ・レシャンバックが併記される)の「白い恋人たち」(原題は「フランスの13日間」)である。同作は、きわめて個人的な視点を思わせるスタンスでの大会凝視ながら、飛びぬけて普遍性高く、単なる競技の記録にとどまることなく大会周辺の様々な人々の様相が優れて美しい抒情的なフランシス・レイのメロディとともに、ひたすら詩的に描かれていく。若く多感な年齢で出会ったせいがあるかもしれないが、同作ほど胸にしみわたり心動かす五輪記録映画にはついぞ出会わない。監督自身の思い、抒情がひたすら前面に出された芸術作品である。フランスでたまたまそこに居合わせた映画人が見たままに描いた、撮影した作品、と前口上があって開始する一大抒情詩は、極東の年若い少年にあっても深い説得力を有した、力感あふれ迫力ある芸術作品だった。映画とはかくあるべき。
河瀨直美が提示した、とくにこのSIDE Bは、遠く離れたどこかの国の年若い映画ファンが鑑賞したとき、どうなのだろう、意味不明の要素が多すぎる。そう思うのである。
なぜ、大会組織会長は辞任するのか、なぜIOC会長の前に開催反対を連呼する人の波があるのか、大会開催を必須とする開催国の首相が口にする「多くの人の思い」とは何か、世論調査で半数以上が反対していた中にあっての「多く」とはだれか。なぜ、オープニングの演出主幹や担当者たちは式典から離れて行ったのか。渦中にある一人として、河瀨直美は、それらをいくらでも描けたはずである。宮本亜門ではなく、もっと急進的な反対論者の声を映像にすることもできたはずだ。しかし、河瀨直美はそれをしなかった。いや、できなかった、と百歩譲歩しよう。忖度、配慮があってできなかったのなら、その環境の中で突き詰める、ぎりぎりの方策を、もっと深く顧慮、検討、工夫すべきだった。究極的には、このたびの東京オリンピック2020から離れて、自らの資金で、河瀨直美が見たはずのものを具現化してもよかった。いや、そうするべきだった。五輪資本で製作された作品だからという言い訳なら、それこそが河瀨直美にあっての誠に残念な好機の逸脱である。かかる通り一遍としか言いようのない言説を並べて、入館料を徴して鑑賞者を得ようとするのは明らかな誤謬。かかる仕立てなら、SIDE Aのみでよかったのではないだろうか。
河瀬直美監督のコメントを渇望する。


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