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「ジャクソンひとり」が分からない

今期芥川賞2作とも個人的にはしっくりこない中、選評で気になったのは安堂ホセ「ジャクソンひとり」だった。「×はつけたが、実は今回一番好きな作品だった」と吉田修一が書き、島田雅彦が「荒削りで、破格だが、新たなウェーブをもたらしそうな気配が濃厚なので先物買いしたが、受賞には至らず残念」と言うのだから読まないではいられない。他の選考委員七人いずれも概ね高評価で、場合によっては受賞の可能性もあったのではないかと思われる印象である。すでに単行本化されてはいたが、購入に躊躇いがあり同作が「文藝賞」として掲載されている昨年の『文藝』冬号を図書館で借りて通読した。

ところが、これが分からない。まず、展開する場面が頭に入ってこないのである。読解力の老化と言われれば、それまでなのだが、冒頭の数ページを再読、三読して、やっとなんとか、次へという受け止め方で、最後までたどり着くのが実に辛く、関西弁で言うところの「しんどい」読書時間となった。主人公のジャクソンに似た3人が登場し、皆で連携し4人が入れ替わり立ち替わり、ある企みをもった首謀者に復讐しようとする。そもそも、この4人の区別に難渋する。しかも、物語の時空進んで結末におかれた「死」の真相が呑み込めない。個人と集団とを比べるようにして何がしかを訴えようとしているらしいのだが、その発想、作品そのものを生み出した、いや、本作の根っこにある「思い」を見極められない。マイノリティ、ゲイが分からないわけではない。嫌悪も拒否感も持ってはいない。高齢者にはなったが、それほど意固地でも頑固でもないと思う。内容を要約せよ、と求められれば所与の制限字数内で書き上げられる。難儀ではあったが、読み通すことはできた。しかし、この作品内で起こっている現象そのものに、なんらのリアルも見出せない。作品の必然性を理解できないのである。感性も理解力も、それほどに老いて働かなくなってしまったのか。文藝賞の選考委員である角田光代は、本作に自らもかかわる「私自身」が抱える問題を感じたと書いている。「欠点はあったが、感情的に揺り動かされる場面が上回っていた」という評は同じ選考委員の島本理生である。
敬愛する複数の作家や読書家などが、読んで分からない、それが面白いから分からないことを堪能する、とそれぞれ言い方はいくらか異なるが、そのようなことを言っている、書いている。その姿勢に共感するし、自分自身そうありたいと思っている。で、あるのに、かくも信頼する作家たちと隔たってしまったのかと動揺が大きい。今期芥川賞2作以上に受け入れられない新作だった。むやみに将来ある新進、若手に苦言を呈したいとは思わないが、自らがある今日現在の標高、水準点を確認するべく、あえて稿を起こすものである。

蛇足になるかも知れないが、文藝賞選考委員のひとりである町田康氏は、同作に全く言及していない。これは、氏の同作へのスタンスと受け止めていいのだろうか。

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