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生誕150年記念 間島弟彦と黎明期の鎌倉国宝館 ーその知られざる物語ー

鎌倉国宝館では、当館の創立と発展に多大な貢献のあった間島弟彦氏が、令和3年(2021)に生誕150年を迎えたことを記念し、特別展「生誕150年記念 間島弟彦と黎明期の鎌倉国宝館―その知られざる物語―」を開催中です。

鎌倉国宝館は、大正12年(1923)に発生した大正関東地震による被害を契機に建設が計画されました。鎌倉の史跡名勝や社寺などの保護活動に努めていた鎌倉同人会が中心となって具体案が検討され、昭和3年(1928)に鎌倉町立博物館として鶴岡八幡宮境内に開館しました。
創立にあたっては、国庫及び神奈川県費補助、皇室からの下賜金のほか、一般からも多くの寄付を受けました。その中でも、鎌倉在住の銀行家であった間島弟彦氏(1871~1928)から開館後に受けた多額の寄付は、資金難にあえいでいた鎌倉国宝館の運営を軌道に乗せる大きな力となりました。

間島弟彦氏は、明治4年(1871)生まれ。同27年(1894)第十五国立銀行に奉職、のち三井銀行に移り、大正7年(1918)同社取締役に就任しました。病を得て同12年に退職しましたが、旧尾張徳川家顧問、青山学院理事を勤めるかたわら、歌人として秀歌を遺しました。
このほか、絵画、謡曲に長じ、建築造園にも造詣が深かったといいます。鎌倉には早くから海岸通り(現由比ガ浜地区内)に住み、当地では鎌倉同人会に属して町の発展に貢献しました。

間島弟彦

鎌倉国宝館開館直前の昭和3年3月21日に、喉頭結核のため57歳で亡くなりましたが、その後、愛子夫人が夫の遺志を受け継ぎ、国宝館をはじめ教育機関などへ多額の寄付を行いました。

『鎌倉国宝館庶務日誌』と呼ばれる当時の業務日誌を見ると、国宝館が間島家(愛子夫人)から寄付を受ける経過のほか、青山墓地で行われた弟彦の納骨式に職員が参列する様子などが詳細に記載されています。

六月十九日(火)曇
清川町長午前ニ一回、午後一回来館、間島家ヨリ寄附金ニ付商議ス
六月二十一日(木)
故間島弟彦氏(小町葛西谷居住)遺族ヨリ金五萬円ヲ本館基本金として寄附セラレタル旨荒川館長ヨリ発表アリタリ

庶務日誌


七月六日(金)晴
清川町長来館 五万円寄附者間島弟彦氏納骨式(八日)ニ付鎌倉町ヨリ花輪(五〇円)ヲ供フルコトヲ荒川館長ト協議セラレタリ
七月七日(土)曇
故間島弟彦氏納骨式ニ贈ル花輪注文ノタメ相沢主事ハ東京ニ趣ク
七月八日(日)晴 一時雨
館長ハ町長ト同道ニテ故間島弟彦氏納骨式参列ノタメ上京ス(青山墓地ヘ)
七月十六日(月)晴
清川町長来館 間島家ヨリノ寄附金ニ付館長ト打合セ
七月二十一日(土)雨
故間島弟彦氏未亡人愛子氏ヨリ本館基本金トシテ金五萬円寄附ノ通知ニ接ス 直ニ町長ニ報告ス
七月二十三日(月)曇
基本金五萬円寄附者故間島弟彦氏未亡人愛子夫人宛謝礼状ヲ送ル(館長持参)

12月5日(日)の閉幕まで残りわずかですが、展示場では『鎌倉国宝館庶務日誌』の実物を展示していますので、ぜひ生の筆跡をご覧いただければ幸いです。 

(鎌倉国宝館 金子智哉)