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【鎌倉殿通信・第12回】鎌倉幕府と高野山

皆さんは、鎌倉幕府と高野山には密接なつながりがあることをご存知でしょうか。今回は、北条政子や安達景盛あだちかげもりがつないだ鎌倉と高野山の結びつきをご紹介します。

建保けんぽう七年(1219)正月27日、鶴岡八幡宮で3代将軍・源実朝が甥の公暁く/こうぎょうに殺されました。実朝の死の影響は大きく、4代将軍の選出や後鳥羽院と幕府の関係悪化をもたらします。混乱の中、尼将軍・政子と補佐役の義時姉弟は、実朝死後の混乱する幕府をまとめ、承久の乱にも勝利しました。

その一方で進められたのが、実朝の菩提供養ぼだいくようです。暗殺の翌日には、実朝の正妻(坊門信清ぼうもんのぶきよの娘)をはじめ、大江親広おおえのちかひろ(広元の息子)、二階堂行村にかいどうゆきむら(行政の息子)、安達景盛(盛長の息子)ら御家人百名余りが、実朝急死の哀傷の念に堪えられず出家を遂げました。

さらに貞応じょうおう3年(1223)、政子は、悲惨な最期を迎えた息子・実朝のため、安達景盛こと大蓮房覚智たいれんぼうかくちの申し出により、高野山に金剛三昧院こんごうさんまいいんを創建しました。もともと高野山には、政子が頼朝の菩提をとむらうために創建した禅定院ぜんじょういんがありましたが、実朝死去に伴い、金剛三昧院に改めたといいます。覚智が奉行となり、大日堂、二基の多宝塔、経蔵などが造営されました。創建期の多宝塔一基(国宝)と経蔵(重要文化財)は、現在も残っており大変貴重です。初代の長老には、鎌倉浄妙寺の開山としても知られる栄西の弟子・退耕行勇たいこうぎょうゆうが就き、以降、歴代将軍の祈願所として繁栄しました。

また頼朝と大進局だいしんのつぼねの間に生まれた貞暁じょうぎょうは、鎌倉から仁和寺にんなじに入り、その後、高野山に移り住んでいました。貞暁は、政子の支援を受けて寂静院じゃくじょういんを建て、頼朝の菩提を弔ったといいます。

北条氏展 vol.3「北条義時とその時代」では、この金剛三昧院創建の由来が記された『六巻書ろっかんしょ』第一(室町後期の写し)や、寺外初公開の大蓮房覚智(安達景盛)像(室町時代)、多宝塔図面(明治時代)、経蔵棟札写きょうぞうむなふだうつし(江戸時代)などを展示しています。また、高野山西南院さいなんいんからは、鎌倉後期の辞書『塵袋ちりぶくろ』(室町時代の写本)をお借りしました。

例えば、『吾妻鏡あずまかがみ』には、義時が和田義盛わだよしもりの甥・胤長たねながを「面縛めんばく」したことが挙兵の動機の一つとなり、和田合戦に至ったと記されています。「面縛」とはどういう意味でしょうか?こんなときに役立つのが古辞書こじしょです。『塵袋』によれば、「面縛」とは「両手を後ろに縛る状態を指し、前から見ると顔面だけが見えるので面縛という」と記されています。義盛は、胤長が罪人として扱われたことに怒りを覚えたのです。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和4年8月1日号)