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鎌倉殿通信-note版-

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#源頼朝

鎌倉殿通信、はじめます!

こんにちは。鎌倉歴史文化交流館・学芸員の大澤です。 いよいよ来年の1月から、北条義時を主人公とする大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がスタートしますね! 当館の職員は、今にも「もぉ~い~くつ寝ると、鎌倉殿の13人~♪」と歌いだしそうな勢いです。 一方で、   ん!?    北条義時って誰?    鎌倉時代ってよくわからないな そんな方々も多いのではないでしょうか。そんな皆様の疑問にお答えすべく、交流館では、広報かまくら8月1日号から「鎌倉殿通信」の連載をスタート! 鎌倉幕府草

【鎌倉殿通信・最終回】遺志を継ぐ者たち

源頼朝亡き後、武家政権を維持・発展させた北条政子・義時姉弟も、貞応三年(1224)に義時、翌年に政子が相次いで亡くなります。 義時の長男である泰時は、承久の乱後、京都で戦後処理にあたっていたため、父の死に目には会えませんでした。ときに42歳。以後、執権として幕政を主導しますが、継母にあたる伊賀の方が三浦義村と協力して実子の政村を執権に据えようと画策するなど、その前途は多難なものでした。 近年発見された藤原定家の日記『明月記』によれば、危篤状態の政子に対し泰時が何度も「あな

【鎌倉殿通信・第14回】北条義時の妻たち

北条義時には、少なくとも四人の女性との間に子どもが生まれています。 源頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192)、義時は姫の前を正妻に迎えました。比企朝宗の娘で、将軍御所で女房を務めていた女性です。格別に頼朝のお気に入りで、美しい容姿の持ち主でした。 姫の前を見初めた義時は、恋文を送り続けましたが相手にされません。そこで頼朝が義時に、絶対に離別しない旨を誓約書として書かせて仲を取り持ち、婚姻に至りました。これには、源氏将軍家を支える北条氏と比企氏の一体化を目指す頼朝

【鎌倉殿通信・第13回】『吾妻鏡』のひみつ

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送が始まって以降、『吾妻鏡』という名前をよく耳にするようになりました。『吾妻鏡』は鎌倉幕府によって編纂された公式な歴史書で、鎌倉の歴史を知る上で基本となる史料です。治承四年(1180)4月、以仁王の令旨(命令の文書)が源頼朝の元に届くところから始まり、親王将軍宗尊親王が京都に戻るまでの出来事を編年で記しています。編纂時には、京都の貴族の日記や文学作品、各家に伝来した古文書、幕府関係者の日記など、膨大な史料が参照されました。 しかし、残念ながら

【鎌倉殿通信・第11回】「鎌倉ノ本体ノ武士」 梶原景時

13人の中に、鎌倉を本拠地とした武士がいることをご存じですか。その人物こそ、鎌倉の地名「梶原」を名字とする梶原景時です。景時は桓武平氏の一流・鎌倉党を出自とする武士で、鎌倉の梶原を本拠としました。深沢地区には、鎌倉党の祖・鎌倉権五郎景正を祭る御霊神社や、景時の墓と伝わる五輪塔があり、梶原氏ゆかりの地であることを今に伝えています。 源頼朝が挙兵すると、同じ鎌倉党で平家方の大庭景親軍につきますが、石橋山の合戦で頼朝の危急を救い、以後頼朝の信頼を得て活躍します。治承・寿永の乱の際

【鎌倉殿通信・第10回】頼朝の腹心・安達盛長

今回は、源頼朝を陰に日向に支えた、安達盛長に注目します。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、頼朝や義時を温かく見守る姿が印象的ですね。 安達盛長(1135~1200)は、藤九郎とも称し、頼朝を流人時代から支えていました。おそらく、頼朝の乳母である比企尼の娘・丹後内侍の婿となった縁から、比企尼の意向のもと、頼朝の身の回りの世話にあたっていたと考えられます。出自は三河国宝飯郡小野田荘(今の愛知県豊橋市賀茂町)を本拠とする小野田氏の庶流(分家)の可能性がありますが、諸説あり明らかで

【鎌倉殿通信・第5回】頼朝以前 ー源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか

もし皆さんが鎌倉の歴史の説明を求められたら、どの時代からお話をしますか?多くの方は源頼朝が挙兵し、鎌倉に幕府を開いたところからはじめるのではないかと思います。 では、頼朝以前の鎌倉はどのようなところだったのでしょうか。 第5回の鎌倉殿通信では、少し時代を遡って、頼朝挙兵以前の鎌倉の歴史を紐解くことで、頼朝が鎌倉を選んだ理由を考えてみたいと思います。 古くは、鎌倉幕府の公式の歴史書『吾妻鏡』に、次のように記されています。 「所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、」 ー

【鎌倉殿通信・第4回】鎌倉の女傑・北条政子

北条義時の姉で源頼朝の正妻、北条政子は、保元二年(1157)、時政の長女として、伊豆国北条に生まれました。頼朝と出会ったのも、この北条の地です。頼朝との結婚は、北条氏を歴史の表舞台へと導くことになります。 治承四年(1180)、頼朝は挙兵しますが、石橋山の戦いで惨敗。安房国に渡海すると、房総半島を北上し、鎌倉に入りました。この間、政子は伊豆山の僧坊に避難し、家族の無事を祈っていましたが、頼朝から数日遅れて鎌倉へと入ります。時に頼朝34歳、政子24歳でした。 将軍御台所とな

【鎌倉殿通信・第3回】義時と政子の父・北条時政

今回は北条義時や、源頼朝の妻となった政子の父、北条時政を紹介します。 時政は、伊豆国田方郡北条(現・静岡県伊豆の国市)の出身です。治承四年(1180)に頼朝が挙兵すると、時政は一門で頼朝を支えました。石橋山の合戦で敗れた頼朝と共に安房国(千葉県南部)へ渡ります。 その後甲斐国(山梨県)へ向かい、武田信義や安田義定などの甲斐源氏を味方に付けます。この交渉が功を奏し、甲斐源氏が富士川の戦い(静岡県富士市)で平家方に奇襲をかけたため、頼朝軍の勝利は決定的になりました。そして元暦

【鎌倉殿通信 第1回】150年の歴史は「鎌倉殿」から始まった

皆さんは「鎌倉殿」という言葉を聞いたことがありますか?鎌倉幕府の将軍というイメージでしょうか。もしくは幕府の創始者である源頼朝を思い浮かべるでしょうか。 厳密には、どちらも正解であり、どちらも違うとも言えます。 鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう鎌倉幕府」、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年(建久3年)と習った人も多いでしょう(「イイハコ」〈1185年〉の人もいると思います)。しかし、現在は多くの説があり、鎌倉幕府の性格をどう評価するかによって、重視する年代が異なりま