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【鎌倉殿通信・第3回】義時と政子の父・北条時政

今回は北条義時ほうじょうよしときや、源頼朝みなもとのよりともの妻となった政子まさこの父、北条時政ほうじょうときまさを紹介します。

時政は、伊豆国田方郡たがた北条(現・静岡県伊豆の国市)の出身です。治承じしょう四年(1180)に頼朝が挙兵すると、時政は一門で頼朝を支えました。石橋山の合戦で敗れた頼朝と共に安房国あわのくに(千葉県南部)へ渡ります。

その後甲斐国かいのくに(山梨県)へ向かい、武田信義たけだのぶよし安田義定やすだよしさだなどの甲斐源氏を味方に付けます。この交渉が功を奏し、甲斐源氏が富士川の戦い(静岡県富士市)で平家方に奇襲をかけたため、頼朝軍の勝利は決定的になりました。そして元暦げんりゃく二年(1185)に平家が滅亡すると、時政は頼朝の代官として京都へ上り、政治的な交渉や京都の治安維持に当たり、程なくして鎌倉へ戻ります。

北条氏は頼朝の外戚として、初めから抜きん出た存在だったと思う人も多いかもしれませんが、時政が頭角を現すのは、建久けんきゅう十年(1199)に頼朝が亡くなった後です。

2代鎌倉殿・源頼家を支える13人に選ばれ、正治しょうじ二年(1200)には従五位下じゅごいのげ遠江守とおとうみのかみに任じられました。

台頭する北条氏に対して、頼家の妻・若狭局わかさのつぼねの実家である比企ひき氏も勢力を強めていました。建仁けんにん三年(1203)に頼家が危篤になると、北条氏と比企氏の確執が表面化します。『吾妻鏡』によれば、時政は比企能員よしかずを名越の自邸に招いて殺害し、比企一族を滅亡させました。

その後、時政は政子たちと共に実朝を三代鎌倉殿に立て、政所別当まんどころべっとう(長官)に就任して実権を握りました。しかし、元久げんきゅう二年(1205)、後妻・牧の方の讒言ざんげんで、有力御家人の畠山重忠しげただ重保しげやす父子に謀反の疑いをかけて殺害。さらに牧の方との娘婿・平賀朝雅ともまさを鎌倉殿に立てようとしたため、政子・義時との対立は決定的となり失脚します。その後、伊豆に退いて10年を過ごし、建保けんぽう三年(1215)正月に没しました(享年78)。

歴史にタラレバはないといいますが、時政がいなければ、北条氏の台頭はありえなかったでしょう。時政の選択の一つ一つが、後の運命を決定付けるものとなったのです。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】(広報かまくら10月1日号)