【鎌倉殿通信 第1回】150年の歴史は「鎌倉殿」から始まった
皆さんは「鎌倉殿」という言葉を聞いたことがありますか?鎌倉幕府の将軍というイメージでしょうか。もしくは幕府の創始者である源頼朝を思い浮かべるでしょうか。
厳密には、どちらも正解であり、どちらも違うとも言えます。
鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう鎌倉幕府」、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年(建久3年)と習った人も多いでしょう(「イイハコ」〈1185年〉の人もいると思います)。しかし、現在は多くの説があり、鎌倉幕府の性格をどう評価するかによって、重視する年代が異なります。総体的には、鎌倉幕府は段階的に成立したと考えるのが有力です。つまり、「頼朝の征夷大将軍就任=鎌倉幕府の成立」ではなく、就任はその段階の一つと考えられているのです。
征夷大将軍に任じられたころ、頼朝はすでに「寿永二年十月宣旨」(1183年)によって東国の支配を認められ、侍所・公文所・問注所の設置、守護・地頭の設置、権大納言・右近衛大将への就任などを経て、実質的な東国の主としての立場を確立しつつあったと言えます。
では、頼朝のもとに集まった人々は、この実質的な東国の主・頼朝をどのように呼んでいたのでしょうか。それこそが「鎌倉殿」という呼称です。彼らは東国・鎌倉の主という意味を込めて、「鎌倉殿」と呼んでいたのです。
1180年(治承4年)10月、源頼朝は鎌倉に入り、現在の鶴岡八幡宮の東に位置する大倉の地を居所と定めました。そして12月12日、頼朝は完成した新邸に入ります。晴れて風が静かな日であったそうです。新邸には311人もの武士たちが集まり、源頼朝を主と仰ぎました。
頼朝の死後、子息の頼家が跡を継ぎますが、彼が征夷大将軍に任じられるのは、その約3年後のことです。頼朝の死によって頼家が継承したのは、将軍ではなく「鎌倉殿」という立場だったということになります。三代実朝の代になると、鎌倉殿の継承と征夷大将軍への任命が同時期に行われるようになり、次第に「鎌倉殿」は「鎌倉幕府の将軍」と同じ意味を持つようになっていきます。
頼朝が挙兵した当初、平清盛や木曽義仲のように、武家政権を京都に打ち立てる選択肢もあったかもしれません。源頼朝は京都生まれでもありますので、京都への憧憬もあったことでしょう。しかし、御家人たちの助言もあって、頼朝はその居を鎌倉と定め、「鎌倉殿」として基礎固めにまい進します。奇しくも、平家や木曽義仲の勢力はいずれも短命に終わっています。鎌倉幕府が150年も続いた背景には、頼朝が東国・鎌倉という地で主「鎌倉殿」となったことが大きく影響していると言えるでしょう。
鎌倉歴史文化交流館学芸員 大澤泉(広報かまくら8月1日号に追記)