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【鎌倉殿通信・第5回】頼朝以前 ー源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか

もし皆さんが鎌倉の歴史の説明を求められたら、どの時代からお話をしますか?多くの方は源頼朝が挙兵し、鎌倉に幕府を開いたところからはじめるのではないかと思います。

では、頼朝以前の鎌倉はどのようなところだったのでしょうか。

第5回の鎌倉殿通信では、少し時代を遡って、頼朝挙兵以前の鎌倉の歴史を紐解くことで、頼朝が鎌倉を選んだ理由を考えてみたいと思います。


古くは、鎌倉幕府の公式の歴史書『吾妻鏡あずまかがみ』に、次のように記されています。

「所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、」
ー鎌倉はもともと辺鄙な所で、
 漁師や農民のほかに居を定めようとする者は少なかったー

ここから長らく、頼朝以前の鎌倉には辺鄙へんぴな場所」というイメージが定着していました。

しかし、昭和五九年(1984)から平成四年(1992)に行われた今小路西遺跡いまこうじにしいせき(御成小学校)の発掘調査で、そのイメージが大きく覆ります。この調査では、「天平五年」(733)のめいを持つ木簡と共に、今から約1300年前の役所とみられる建物(郡の役所・郡家ぐうけ)の跡が見つかりました。全国的にみても、古代の役所は陸上や海上の交通の要所に置かれています。鎌倉にも古代の東海道や、海や川を利用した交通路が通っていましたので、やはり地域の要衝となるような場所だったと考えられます。

今小路西遺跡の発掘調査
天平五年銘の木簡

また、鎌倉は海とのつながりが深い場所でした。平成二八年(2016)の調査で発見された長谷小路周辺遺跡の箱式石棺墓はこしきせっかんぼがその事例の一つです。同様の石棺墓は三浦半島でも見つかっており、海洋民(海を生業なりわいとした人々)との関係が想定されています。

長谷小路周辺遺跡の箱式石棺墓

さらに、由比ガ浜中世集団墓地遺跡では「卜骨ぼっこつ」(占いに用いられた獣骨)が見つかっています。こちらも三浦半島などで多く見つかっており、海洋民の習俗と考えられています。

さて、鎌倉の郡家は平安時代に入ると衰退しますが、次にこの交通の要所・鎌倉を拠点としたのが、頼朝の先祖に当たる源頼義よりよしでした。南北朝時代に記された『詞林采葉抄しりんさいようしょう』には、平直方なおかたが自身の鎌倉の屋敷を、娘婿となった頼義に譲ったことから、鎌倉が「源家相伝ノ地」となったと記されています。頼朝の父・義朝も現在の寿福寺付近に屋敷を構え、逗子の沼浜や金沢の六浦にも拠点を持っていました。これらは相模湾から房総半島にかけての東京湾ルート上の要地に当たります。源氏は海や川の交通の掌握に積極的だったと考えられており、その中継地となる鎌倉は、特に重要な拠点となっていたのです。

だからこそ、頼朝は鎌倉の地を居所としたのではないでしょうか。しくも、石橋山の合戦に敗れた頼朝は、この海の道を頼って房総半島へ逃れ、東京湾を回って鎌倉に入りました。そしていよいよ、鎌倉時代の幕が上がります。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】(広報かまくら令和3年12月1日号)