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『鎌倉物語 第二話:遠く故郷から離れた場所で』

大学デビューと就職留年

 大学に入学して1年間は大人しく勉強していた。早稲田の一文は1年生の成績で、どの専攻に入るかが決まる。下手にサボると自分がまったく興味のない学科に入って、卒業できないと言われていた。そのため大学入学後もしっかり勉強する必要があった。周囲は明らかに自分よりも頭が良かったが、持ち前の器用さでうまく単位をとり、文学部内でも人気の演劇映像専修に入ることができた。
 2年生からはイベントサークルの仲間と毎週末のようにクラブに行き、女子大をナンパしてまわり、派手に遊びまわっていた。大学デビューってやつだったが、何もかもが新鮮にうつって楽しかった。日サロに通って肌を真っ黒に焼き、当時流行っていたカチューシャをつけたダックヘアで調子こいていた。メッシュを入れたり、白髪にしたこともある。喧嘩は弱かったので、何度も六本木で本物の不良にボコられたが、それでも懲りることなくクラブで遊びまわっていた。数年後、スーフリ事件が起きるが、逮捕された幹部の人たちの中には顔見知りが何人かいた。当時、早稲田には大きなイベントサークルが2つしかなかったが、僕は幸運にもスーフリとは別のイベントサークルだった。「20歳過ぎてバカやってたら、本当のバカ」という母の教えもあり、大学3年のころにはイベントサークルにもほとんど顔を出さなくなっていた。ある意味、幸運だったようにも思う。
 大学3年の夏終わりぐらいから就職活動の準備をはじめたが、就職氷河期ということもあって、ことごとく落ちた。ぼんやりマスコミ系ということでテレビ局を中心に受験したが、東京はもちろん大阪も名古屋も福岡も全部ダメ。まったく受かる気がしなくて就職留年を早い段階で決めてしまった。遊び回っていたばかりで大学生活を通じて何もしていないことに気がつき、ダブルスクール的に映像制作を教えてくれるENBUゼミナールの第一期生になった。そこでは篠原哲雄という有名な監督の下で自分が監督した短編映画を作ることもでき、充実した時間を過ごした。2回目の就職活動では何とか内定をいくつかもらって終えることができ、大学を卒業した。

社会から拒否されたという感覚

 大学を一年遠回りして卒業した僕は新卒で大手芸能プロダクションに入社した。ミリオンヒットを何曲も飛ばすアーティストが複数在籍し、同時はステータスだった『月9ドラマ』に出演するような俳優や女優を抱えるような業界でも有名な大手事務所だったが、特に入りたくて入った会社ではなく、受かったから入った会社だった。そして入社初日に「こりゃダメだな」と気づいてしまう。
 誰もが知っているような芸能人が多く在籍するその会社で、僕は見習いマネージャーみたいな仕事をしていたが、とにかくどの業務もおもしろくない。そのうえなぜか何をやっても怒られる。入社初日に感じた絶望感は日に日に増大し、3ヵ月も経つころには自律神経失調症になり、精神安定剤が手放せなくなった。6ヵ月後にはバイク事故を起こし、入社してちょうど1年で退社した。母はそれを聞いて泣いていたが、僕にはどうしようもなかった。あのままあそこにいたら、死んでいたような気もする。それほど僕は追い詰められていた。

 仕事を辞めてから心はずいぶんと軽くなり、薬からも解放されたが、いっぽうで「社会の中で普通に働く」という、ごく当たり前のことができないんだな、という絶望感と諦めという厄介なものを手にしていた。転職雑誌を買ってはみるものの、どうもやれそうな仕事が見つからない。池袋で見かけたホームレスの人が、たまたま自分と同じ靴を履いているのを見たときに「へたすりゃあっち側に行くな」って思ったのが印象深い。そのくらい「働く」ということに絶望していたのである。

人生が変わる。自分に無理しないと決めた時から

 しかし、そんなダラダラと坂道をゆるやかに転げ落ちるような生活は、2ヵ月ぐらいで突然終わりをつげる。きっかけは『パイロットフィッシュ』という小説だった。アダルト雑誌『月間エレクト』の41歳の編集長が主人公の恋愛小説だが、僕は恋愛よりも主人公の仕事に興味を持った。もちろん「おもしろそうな仕事」だとかそんな前向きな発想ではなく「これなら自分にもできるかも」という希望を抱いたのだ。小説の中で描かれる編集者の仕事は、昼夜逆転しているような生活だったし、社員の数も少なくてアットホーム。デスクで寝たりも当たり前というようなライフスタイルが描かれていて、自分にピッタリなような気がした。給料は安そうだけど、ホームレスよりはましかな。そんな気持ちで転職雑誌に募集が出ていたいくつかの会社に履歴書を出し、出版社は受からなかったが、業界では大きめの編集プロダクションが拾ってくれた。最終面接でお会いした社長がすごく誠実な方で「この会社にはふたつ大きな欠点がある。編集長にはなれないのと、給料は安い」と伝えてくれ、そのことがかえって僕にはありがたかった。雑誌編集のことはまったくわからず、就職活動のときも出版社は受験しなかったので不安はあったが、収入がとまったままの生活を続けるわけにもいかず、その会社でお世話になることにした。

 今後の人生とかそういったものをあまり深く考えず、ダメだったらまた考えよう、ぐらいの気持ちで選んだのが良かったのか、編集という仕事は僕にとって天職だった。よく「雑誌編集者=クリエイター」と勘違いしている人がいるが、それとはちょっと違って雑誌編集者はその名の通り、世の中のおもしろい人、もの、コトを見つけ、切り取り、編集し、雑誌に載せるのが仕事である。0から1を創るのではなく、1を10や100にしていく作業。タレントやモデルとの撮影や華やかなステージへの取材などが目立つが、実際は地道なリサーチやデスク作業の積み重ねで一冊の雑誌ができあがる。その地味な作業を楽しめるか、楽しめないか、で編集者になれるか、なれないかがほぼ決まる。当時は労基も厳しくなく、2日や3日徹夜するのは当たり前だったが、眠いということ以外、僕にはそれが苦にならなかった。仕事の自由度も高く、先輩が来るのはお昼過ぎの14時ぐらい。出社時間の朝10時にデスクに座ってる人なんて、徹夜組をのぞいてはほとんどいなかった。配属されたチーム長が良い感じに力の抜けた人で、やりたくない仕事をポンポン僕にふってくれたこともあり、通常1年ぐらい経験を積んだ後に任される特集ページを、入社後3ヵ月で担当させてもらえたこともラッキーだった。給料は社長がおっしゃったとおり安かったが、そんなことは忘れてしまうぐらい仕事が楽しかった。最初に任せてもらえた特集ページの校了を深夜にバイクに乗って大日本印刷に届けている途中に「世の中にはもっとお金をもらえる仕事、楽しい仕事、華やかな仕事、人が羨むような仕事がたくさんあるかもしれないけど、自分は一生この編集という仕事で良いなあ」と思った記憶がある。
 こうして行き当たりばったり的に出会った編集プロダクションで3年ほどキャリアを積み、版元と呼ばれる出版社に転職した。編集長になりたかったからである。