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『鎌倉物語 第四話:努力の上に花が咲く』

絶望の次に訪れるメジャー雑誌の編集長という大役

 銀座での出来事からしばらくして、出版界のとあるレジェンドから連絡が入る。売上を大きく落としている雑誌があるから、編集長として力をかしてくれないか?ということだった。聞けば冗談半分で学生のころ「あの雑誌の編集長やりたい」なんて言った覚えのある、自分も読者だった誰もが知っているような雑誌だった。今までニッチなマーケットの雑誌しか作ってこなかった僕に、いきなりメジャー雑誌の編集長のオファーが届いたのである。前の雑誌で売上を上げていた実績はもちろんだが、僕のスタッフに行った謝罪行脚の話を聞きつけ、そういう人間だったら任せられるのではないか?という、レジェンドの言葉が最終的な決め手になったと後から聞いた。人生何が吉と出るかわからない。このときひとつわかったのは、たとえ逆境に挑み、乗りこえられなかったとしても、挑んだ先には何かがあるのだな、ということだった。

「がんばって、がんばって、死ぬほど努力しても結果が出ず、圧倒的な絶望感を味わえるぐらい努力した人間に、神様は次の道を用意してくれている」    

 とある経営者の言葉だが、その通りだなと今でも思っている。

 このヘッドハンティングは幸運だったし、ニッチな雑誌ばかりを作ってきた僕にとっては人生最大のチャンスだった。不安も大きかったが、このチャンスを逃すわけにはいかないと、編集長のオファーを受けさせてもらった。 
 だが、メジャー雑誌にうつってからまた地獄の日々がはじまる。30年以上も歴史のある雑誌だったが、外部からの編集長の招聘は初。実績のある編集長だろうと、下に見ていたニッチな雑誌を作っていた人間が、上司になることに編集部からも大きな反発があった。自分たちの作る雑誌への愛情が、そのまま反感となって僕に当てられる。上司であるはずの僕が何度も部下に呼び出され、こうじゃない、ああじゃない、と編集方針に口を出され反対された。失敗も多くあり、陰口も聞こえてきた。自律神経失調症や会社倒産など、いろいろツラいことを経験してきたが、今のところこの時期が一番ツラかった。編集部内で悪口を言われるのを防ぐため、誰よりも早く出社し、お昼休憩もなく席を外すのはトイレの時だけ。編集部員が全員帰ってから帰宅した。やっとたどり着ける1日の最初で最後のご飯はいつもコンビニ。精も根も尽き果て、よくコンビニ近くの道ばたで地べたに座って食べていた。

 モデルもどう接して良いかわからなかったせいもあるだろうが、編集部員を経験せず編集長となった僕になかなか心をひらいてくれなかった。今思えば当たり前で、前編集長から推されていたコからすれば、僕は人生のプランを台無しにする邪魔な存在でしかない。事実、それまで何度も表紙を飾っていたコが、僕が編集長になってから一度も表紙に登場しなかった、ということもある。彼女たちにとって雑誌の売上はそれほど重要ではなく、自分がより高みに登っていけるかの方が人生の一大事。一部に限ったことではあったが、モデルから刺すような視線で見られるのは正直ツラかった。

 そして何より厳しかったのが、売上がなかなか上がらなかったことだ。3年ほど下がり続けていた下降線は早い段階で止めることができた。しかし、どうしても売上が上がっていかない。個人的にはしっかりとした実績を引っさげ結果を出すつもりで乗り込んだが、どんな打ち手も空回り。身体が会社に行くことを拒否していたのだろう。朝起きてベッドから立とうとしても、身体が動かないような日もあった。そんな日は10分ほどベッドに座った状態で少しずつ身体の力を抜くことで、ようやく立ち上がることができた。ふとある日、ここからのV字回復の可能性なんて5%もないよな…。あっても3%かそのぐらいか…とベッドに腰掛けたまま絶望的な気持ちに浸ったのを覚えている。苦しい時期が半年ほど続いた。

正しい努力をすれば、神様は何度でも微笑んでくれる

 しかしその売れない半年の間に少しずつ、でも着実に。絡み合った糸を1本、また1本とほぐしていくように。諦めず、雑誌作りと向き合い続けた。最初は反発ばかりだった編集部員にも「この雑誌をなんとかしたい。そうでなければ休刊になってしまう」という想いが少しずつ伝わりだす。信頼を勝ち得るため、どんなに自分で良いと思ったアイデアでも必ず編集部員と話し合ってから、やるやらを決めていた。ときに感情的な否定論を展開されることもあったが、それにもじっくりと向き合い、合意がとれるまで何度でも話し合った。編集長が勝手に決めた、ではなく、編集部員と一緒に決めた、という状態を必ずとることを心がける。時間はかかるが仕方ない。そうやって編集部員と向き合うことで、少しずつひとつのチームになっていった。僕が編集部に入った当初は、新しいことをせずに「これはこの雑誌がすることじゃない」と文句を言える空気が幅をきかせていたが、失敗をしても新しいコトに挑戦し、結果を出そうともがいていると、一人また一人と味方が増えていった。
 同時に僕自身もだんだんと編集部員とセッションできるようになっていった。就任当初は自分の中からアイデアが出ず、編集からの提案も「これだと上手くいかないな」と思いつつ代案が出せないので企画内容をGOすることが多かった。だが、多くの議論を重ねることがで、自分から代案も出せるようになり、企画の弱点を的確に指摘できるようになっていった。もちろん否定ではなく、弱点を指摘しつつ、どうすればもっと良くなるかを一緒に突き詰めて考えた。そうしてお互いが納得のいく内容で雑誌が構成されるようになっていった。結果はなかなか出なかったが、読者アンケートの企画ランキングを見ながら「すみません(自分の作った企画が)人気出なくて」と担当編集から言われるようにもなる。そう言われたときは「一緒に考えた俺の責任だよ。それに俺はこの企画好きだよ」と答えるようにしていた。当たり前だ。結果の全責任は編集長の自分にある。

「結果が良かったときは編集部員のおかげ。結果が悪かったときは編集長の自分のせい」心からそう思っていたし、そう口にするようにしていた。

 なかなか結果が出ず自分も編集部員も苦しかったが、8ヵ月目にようやく売上が上がる。新しく発信したファッションスタイルがマーケットにしっかり響いたことと、モデルの一人がテレビで大ブレイクを果たし、新しいお客さんを呼び込んでくれた。売上が上がらないときは何をやっても失敗するのに、良いことは重なるもんだと思った。
 上昇気流に乗ってからは売上も落ちることなく、編集長就任当初の目標を上まわる水準まで上がった。雑誌を通じてさまざまな仕掛けや発信を行い、外れるものもあったが大きな反響を得るものもあった。今やグローバルスーパースターとなった「BTS」をはじめてファッション誌に起用したのも自分たちだったし、韓国のファッションカルチャーを大々的に特集した最初の雑誌にもなった。モデルは次々とテレビに出て活躍し、編集長の僕までも全国ネットの番組にゲストで呼ばれたりするぐらいになっていた。
 このとき生まれてはじめて、自己評価よりも他者評価の方が高い状態になった。すごい人が僕のことを「すごい」と言えば、誰しもが勝手に僕をすごい人だと決めつけた。世の中の評価なんてその程度のもので、ずいぶんといい加減なんだなって思った。最近とあるYouTuberが「すごいからテレビに出てるんじゃなくて、テレビに出てるからすごいって思われる」と発言していたが、まさにその通りだと身をもって感じた。

人生において見たいものを見た後に

 現状を少し皮肉的にとらえる自分もいたが、少しずつ苦労しながら登ってきた山の頂点から見える景色は格別なものがあった。人生のハイライトと言っても良いかもしれない。今この瞬間に死ねたら、良い人生だったと振り返ることができるだろうに、と冗談半分に思ったりもした。それほど素敵な時間を過ごさせてもらった。今でもあの時、あの雑誌に関わってくれたすべての人たちに感謝をしている。いろんな人たちのがんばりのおかげで、特別な経験をさせてもらったのだ。

 そして編集長になってまる3年が経ち、僕はその雑誌の編集長を辞めた。39歳になったばかりだった。周囲からは「つづけてほしい」ととめられたが、僕には前の雑誌で経験した4年目のジンクスがどうしてもこわかった。今思えばいろいろとやりようはあったが、せっかくV字回復させた雑誌を自分の都合でつぶしたくはないという想いが勝った。入社時に「長くやっても3年間」と伝えていたこともあり、会社も快く送り出してくれた。最初はそんな余裕は正直なかったが、就任当初から前の雑誌では実現できなかった「次の世代をちゃんと育てて譲る」というミッションを自分に課していたため、後任もすんなり決まった。僕の次に編集長という重い肩書きを背負ってくれたコも、教えたことを進化させて、しっかり結果を出してくれた。「最近また調子良いみたいですよ」と風の噂で聞いたとき、ミッションコンプリート、の文字が頭に浮かんだ。

 編集長を辞めた後、僕はIT企業の普通のサラリーマンになった。今までの生活とは違い、定時には帰られる日々。歯車のひとつとして機能していれば、何も言われることはない。会社の人たちも優秀で良い人たちばかり。居心地は良かったものの仕事をおもしろいと感じるコトはほとんどなかった。これは会社が悪いのではなく、僕自身の性分の問題である。ただ、少しずつ大切なものが削られていく感覚は否めなかった。4年間勤めてたくさんの感謝はあるものの、誰かに何かを伝えたいエピソードはない。父が癌になり、最期の時間をできるかぎり一緒に過ごしたいと思って会社を辞めた。