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『鎌倉物語 第一話:物語の始まりに向かって』

序章

 古本屋をはじめて3日が経った。客はまだ1人も現れない。来る気配すらない。だから今日も日がな一日、父が遺した本を読んで過ごすことになるのだろう。雑多に並べた本の中から『乞食王子』が目にとまる。「バカヤロー解散」で有名な吉田茂の息子にして作家の吉田健一が、乞食王子という独特の視点から、日本の街、社会、文化について語った随筆集だ。
「今日はこれかな」
 本を手に取ると店の一角のお気に入りの場所に腰を下ろす。
 窓から入ってくる春の陽があたたかく包み込むその場所は、ゆったりと流れていく時間の流れを感じられる場所だった。日々、雑誌やイベントの制作締め切りに追われながら生きてきた僕にとって、もう何年も味わったことのない感覚に喜びと小さな不安を感じながら、本を読みはじめた。

何をやっても芽が出ない小学生、中学生時代

 僕は東京で生まれ、福岡で育った。小学校、中学校とあまり目立つタイプではなかったと思う。勉強もあまりできなかったし、スポーツも得意ではなかった。下手くそだったが、小学生のときはソフトボールチームに入り、6年生の時はキャプテンもつとめた。今でもその時のチームメイトとはたまに麻雀をする仲だ。「キャプテンだったのに、おまえ本当に下手だったよな」といじられるのが恒例である。
 その後、学校で出される給食が嫌いというだけで、昼食はお弁当か学食という中高一貫の私立の男子校に入学。受験して入ったから、実はそこそこ勉強できるのかな?と思っていたら、翌年の合格発表を見て欠番がほぼないことに愕然とした。ようは誰でも入れる私立だったのである。
 入学当初はバスケ部に入るが、あまりにもつまらなすぎて辞め、野球部に入りなおした。クラスマッチのソフトボール大会で活躍したのがきっかけで勧誘をうけたのだが、入部後は地獄の日々だった。
 とにかく練習が厳しい、キツい。中学の部活であれほど練習させられることもないんじゃないか?というぐらい厳しかった。貧血の起こしやすい体質のせいか、僕なんかはよく練習中に嘔吐していた。野球経験のない監督が、部員をしごきにしごきまくるというスパルタで、チームはどんどん強くなり九州大会も狙えるぐらいになっていたが、僕はレギュラーにもなれず苦しい練習に耐えるだけの日々が続いた。結果的に3年間補欠のままベンチを温める。最終学年では背番号をもらったが、公式戦の出場は2打席のみに終わった。全国大会を前にチームは敗れ、みんな悔しくて泣いていたが、僕は部活が終わったことが嬉しくて泣いた。
 部活は苦しかったが、野球部の仲間とは固い絆で結ばれ何をやるのも一緒だった。そういえば夏の大会が始まる前に、ライバルとなる強豪校の練習試合を「視察」と称して見に行ったことがある。どこから誰が聞きつけたか忘れたが、その強豪校のエースでキャプテンの彼女がめちゃくちゃ可愛いく、試合になるとよく応援しに来ているという噂を聞いて、3年生全員で見に行った。事実、ひとりだけ圧倒的にキラキラした女のコがひとりいて、僕らは大騒ぎして喜んだ。今思えば他人の彼女に何をときめいたのかは謎で、バカだなあと思うが、男ばかりの青春の中で数少ない女のコが登場するシーンである。余談だが、その女のコはのちに「歌姫」と呼ばれ、国民的スーパーアーティストになる。
 野球部を引退した夏休み。ちょっとは勉強しなさいと、母から河合塾を勧められ、僕はその申し出を喜んでうけた。勉強をしたかったのではない。塾なら女のコと出会える思ったからだ。
 不純な動機で通いはじめた中学3年の夏期講習だったが、僕にとって小さな、そして後に大きな変化のきっかけとなる。偏差値の低い私立中学だったが、学年の中で上位30%には入っていたので、そこそこは勉強ができると勘違いしていたのだが、高校受験をひかえた同学年の公立中学のコたちの方が、圧倒的にデキが良かった。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉があるが、まさにその通りだと思った。大学では福岡を離れ東京に行きたいと思っていたので、マジメに勉強しないとヤバいなと思えたのと、身の程をこのタイミングで知れたのは幸運だった。

リアルビリギャルだった大学受験

 エスカレーターで高校に入学すると僕はすぐに大学受験にむかって勉強をはじめた。頭の良い人たちも高校受験を経て1年間ぐらいは、少しペースを落とすはずだから、自分は高校入学と同時に全力でアクセルを踏むと決めていた。もちろんいきなり勉強ができるようになるわけもなく、高校最初の全国模試は偏差値35ぐらいだったが、それでも勉強への意欲は高まる一方だった。バカなんだから、スタートダッシュで少しでも差をつけようと思い必死に勉強した。また「大学受験のための勉強」という目的が明確だったので、高校1年の夏には英語・国語・日本史の3教科に絞っていた。頭の良い他校の生徒が受験以外の科目に費やす時間を、すべて受験用の科目に費やすという、思い切りの良い作戦だった。私立三教科で英語と国語は必須。社会は日本史か世界史の選択に悩んで、カタカナよりも漢字の方が覚えやすそうという理由だけで日本史に決めた。
 高校1年の夏休みには志望校の赤本に挑んだりもした。もちろん、まったく解けなかったが、それでも良かった。問題の傾向だったり、質に慣れるのが狙いだったからだ。根本的に勉強が得意な方ではなかったが、戦略を練っていくのは楽しかった。そして何よりスポーツと違って、勉強はやれば純粋に結果が出る。中学で3年間、毎日のように吐くほどキツい練習をしてもレギュラーになれなかった野球に比べて、やればやるほど偏差値が上がっていく勉強は楽しかった。
 高校2年生の夏休みには大学の下見するためひとりで東京にも行った。渋谷のスクランブル交差点をはじめて見たときは、こんなにも人が大勢いる場所が世の中にあるんだってビックリした。そんな東京視察でひとつ誤算だったことがある。第一志望だった明治大学が、思いのほかつまんなそうだったことだ。学習院 → 立教 → 青学 → 明治の順番で見に行ったが、第一志望の明治は男ばかり多くて一番どんよりして見えた。今思えば夏休みということも影響していたようにも思うが、ただでさえ中高男子校でこれ以上男だらけの世界はごめんだと思った僕は、志望校を綺麗なお姉さんをたくさん見かけた青学・立教に変えた。
 アホみたいなスタートダッシュと2年間3教科に集中したことで、高校3年の夏休みには、青学・立教はなんとなく合格が見えていた。一方でその上の早稲田と慶応は問題の質が違いすぎて手が届く感じはまったくなかった。母からは一浪してでも狙ってみれば?と言われたが、それは断固拒否した。一日でも早くこのモノクロ写真みたいな男子校生活から抜け出して、華やかな東京の大学生になりたいと思っていたからだ。
 18歳の冬、いよいよ大学受験がスタートする。福岡でも受験可能だった同志社大学の文学部新聞学科をスタートに、東京に場所をうつして青山学院大学や立教大学の文学部、法学部などを受験。最後に記念受験の早稲田大学教育学部の試験を終えて福岡に戻った。東京にいる間に同志社、青学、立教の合格の知らせが届いた。そして早稲田の教育は福岡に帰ってすぐ電報で不合格を知った。当時はホームページでもメールでもなく、地方の受験生が合否を知る手段は電報だった。
 最後に残った早稲田大学第一文学部の試験を受けに再び東京に行くかは正直迷った。早大模試ではE判定だったので、受かる見込みはゼロに近い。受験をしながらの2週間のホテル暮らしは想像以上に堪え、5キロほど痩せて帰ってきたこともあり、両親も無理して受験しなくても良いのでは?というスタンスだった。ただ、それなりにがんばった大学受験の最後の区切りに、やっぱりちゃんと受けておこうと思い、最後の早大一文の試験を受けに再び東京へ向かった。試験を終えると次は大学入学に備えた。あれほど憧れていた東京だったが、受験を通じて将来のことも少し考えるようになり、同志社の文学部に進学を決めた。新聞社に入れるかはわかららないが、新聞学科というところに興味を持ち、入学金を支払い京都で家を探し手頃な賃貸で決めてきた。あとは大学の入学式に行くだけ。そんなタイミングで早稲田一文の合格者が書かれた電報が届く。
 「どうせ受かってないだろうな」そう思って電報を見たのを今でも覚えている。試験当日、あんなに多くの人たちが受験したのに、合格者の番号が書かれた紙はペライチ。異様に数が少なく感じた。そしてその少ない合格者の中に、なぜか僕の番号はあった。最初は間違いかと思った。ただ、何度確認しても自分の受験番号が合格者一覧の中にある。がんばっていれば、こんな奇跡もあるんだな、と思った。おそらく100回受験して合格するのは1回あるかないか。その奇跡の一回を引き当てた。
 その後、家族会議で父と母に詫び、あらためて東京に行かせてもらうことになった。母は「浪人するよりは安上がり」と笑い、父は「金は大丈夫なのか?」と母に聞き「なんとかなるよ」という返事が返ってくると「おまえの好きにしろ」とぶっきらぼうに言ってくれた。