見出し画像

『鎌倉物語 第三話:人生の分かれ道とは?』

ダメ編集長の苦難の船出

 雑誌を作っていく中で、どうせなら自分で企画を決められるようになりたいなと思い、いつの間にか編集長をめざし出版社にうつった。業界ヒエラルキーでは最底辺の出版社だったが、自社ビルは綺麗でオシャレだった。有名なファンドも出資していて、会社の1階にはカフェも併設されていた。ただ、採用面接はゆるくて聞かれたのは3つ。
「二輪の免許持ってるみたいだけどバイクある?」
「バイクで出社することは可能?」
「いつから来れる?」
 2つのイエスの後には入社が決まっていた。当時はデザイナーへのレイアウト入れや、印刷所への入稿や校了は今みたいにデータで送ることができず、手渡しが当たり前だった。そのため時間を選ばずバイク便代わりの役割も担える編集者は少し重宝されたのだ。
 入社初日に社長にも挨拶したが、前の会社の社長と比べて「ちょっと胡散臭い人だな」と思ってしまった。スーツでビシッとキメていて運転手つきの車で出社していた。年齢も30代後半ぐらいで若かったが、銀行出身の人で編集の仕事はしたことがないとのことだった。後から知ったがファンドから送り込まれた社長で、経営者として会社の事業に参画した人だった。

 入社後、担当した雑誌はゴリゴリの黒肌GAL雑誌で最初は苦労したが、5年も過ぎたころ念願の編集長に抜擢された。30歳だった。
 編集長と一般の編集部員は仕事の質が根本的に異なる。編集者はページ作りが主な仕事なので、締め切りまでに制作を終わらすことができればいい。売上の責任もまったくないので、クライアントへの感謝もけっこう薄い人が多い。カルチャーを作っているのは自分たちで、そこで商売している人たちは、自分たちが作ったマーケットに後から商品をのっけてきた人たち、というイメージがあるからだろう。事実その側面もあるのだが、僕も含めてあまり一般社会には袖の合わない人たちの集団ということもあり、勘違いもふくめてちょっと上から目線で面倒くさい人たち、という捉え方もできなくはない。ただ、編集長になると状況が一変する。雑誌の売り上げの責任者はすべて編集長の責任である。雑誌本体を売るのもそうだが、同時にクライアントからお金を引っ張る営業力も必要とされる。それまで少しけむたい存在だった広告営業チームとしっかりと連携し、成果を出していかなくてはならない。雑誌一冊を毎月作り上げるだけでも大変なのに、営業に同行してみずからの雑誌に広告を出す意義をクライアントに説いていく仕事も加わる。最初の数ヵ月はもはや記憶にない、というぐらい仕事に忙殺された。台割と呼ばれる一冊の雑誌の企画をまとめたものを編集長が作るのだが、上司である編集局長のOKが何度トライしても出ない。作ってはやり直し、作ってはやり直し、の連続。それまで同僚だった編集部員を率いるのも最初は苦労した。実績がないから信頼されない。雑誌としての軸はぶらさず、売上は上げないといけないので、抜本的な改革は必要で手はうたないといけない。ただ、その打ち手に対して編集部員の納得が得られない。それまで仲の良かった後輩編集との関係もギクシャクした。加えて営業に同行してもセールストークが下手くそで、営業チームのトップから毎日のようにダメ出しをされる始末。とあるアポイントが終わってエレベーターに乗った瞬間、営業があきれたような深いため息をついたことは鮮明に覚えている。

 苦難続きの船出だった。それでも幸運だったのは、早い段階で売上が上がりだしたことだった。別の編集部から来てくれた同い年の副編集長の助けも大きかった。彼は僕に対しても納得がいかなければ平然と文句を言うが、正しいと思ったら全力で応援してくれた。編集部員を最初にまとめてくれたのも彼だった。ときに厳しく、ときにユーモアを交えて編集部員をまとめていってくれる。売上が上がったこともあり、編集部に少しずつ一体感が出てきた。時を同じくして営業に同行してもダメ出しをされることがなくなった。マーケットに対して自分たちが作っている雑誌がどういうベネフィットを提供しているかを、売上が上がったことで確信をもって説明できるようになったからだ。アポイントの後にエレベーターの中で営業から「どうしたの? 説明が別人のように上手くなったね」と言われたときは涙が出るほど嬉しかった。最初は躓き、苦しんだが周囲の人たちの助けもあって難局を乗り切ると、新しい世界が待っていた。そう、僕は編集長に向いていたのである。

編集長としての覚醒。そして会社の倒産

 僕が編集長として得意としたのは、モデルを有名にしながら雑誌の売り上げを上げていく方法だった。女性ファッション誌の編集長をやるに当たって、男の僕が雑誌の内容で勝負するのは厳しい。それなら雑誌を使ってモデルを有名にし、モデルの影響力でマーケットにインパクトを出した方が良い。結果的にそれが雑誌の影響力や売上にもつながっていくという方法だった。事実、僕が最初に編集長をつとめた雑誌は部数こそ多くなかったが、雑誌に商品が掲載されるとよく売れると評判だった。読者は好きなモデルが着ているあのお洋服が欲しい、とショップに足を運んでくれた。この手法はトレンドに売上が左右されないし、横展開がしやすい。事実、スピンオフのような別冊を3カテゴリー計10冊ほど出版したが、どれも売れ行きは良かった。天才型の編集長ではなかったが、地道な努力の積み上げで雑誌の実売を伸ばしていったので、その過程で売上を伸ばすための理論が自分なりに確立されていった。

 引き継いだ時に売上が下降線をたどっていた雑誌もV字回復を見せ、クライアントからの広告ページも増え、会社の利益を支えるまでに成長した。その成果を評価されて34歳のときは、女性誌の部長を任されるまでになっていた。仕事は順調だったが、4年目から雑誌作りに関して少しスランプに陥った。今の雑誌に少し飽きはじめている自分がいたのだ。毎シーズン、毎シーズン、新しい提案をしていく中で、だんだんとマンネリしてくる感じが嫌だった。どうしても成功体験に縛られる。何をやれば失敗するかが見えてしまうようになって、急にやれることの幅が小さくなっていくのを感じた。人ひとりが持ちうる感性なんてこんなもんかなあとも思ったし、雑誌の売上が下がったわけでもなかったので、周囲には気づかれなかったが僕のテンションはあきらかに落ちていた。

 そんなおり急転直下、会社が倒産する。

 気配がまったくなかったわけじゃない。ギャラ未払いの連絡が外部スタッフからちょくちょく入るようになり、会社の懐具合が苦しそうなのもわかっていた。それでも「倒産」という2文字はどこか他人事のように思え、まさか自分が勤めている会社でそんなことが起きるとは夢にも思わなかった。シンプルに会社の仕組みをよくわかっていなかったのが倒産を予見できなかった原因だが、どこかで自分にはそんなことが起きるわけない、という勝手な思い込みがあったのも事実だった。
 倒産の後は自分が編集長をやっている雑誌をどこが買ってくれるか?という話しになった。ファッション雑誌にしては珍しく黒字だったこともあり、どこか買取手が見つかるだろう。そんな甘い読みもあった。事実、いろいろな出版社やIT企業が話を聞いてくれた。だが残念ながらなかなか買い取ってくれる会社が見つからない。同時に僕を苦しめたのは、会社がのこした外部スタッフへの未払い金だった。本来であれば未払いの矢面に立つはずの社長は早々に夜逃げをしていた。ファンドから送り込まれた人間なんてそんなもんか…とガッカリしたのを覚えている。社長がいないので、外部スタッフは編集長の僕に支払いを詰め寄るしかない。給料や仮払金の未払いで僕自身も300万円以上の損失を抱えていたが、ひとつひとつ外部スタッフに対応していくことが求められた。経理から伝えられた大小合わせて100件ほどの未払い。他の雑誌を担当していた編集長の中にはメール一本で謝罪を終えていた人もいたが、僕は編集長の最後の仕事として、謝罪だけはしっかり一人ひとりやり切ろう、と心に決めた。かっこ良くそう思ったわけじゃない。ただ、そこから逃げてしまってはこの数年の編集長としての自分の活躍に、みずから泥を塗るような気がしたからだ。
 毎日毎日、謝罪を繰り返す日々が続いたが、このときは本当にツラかった。謝罪というのは何かを埋め合わせることもセットで行うことが多いが、その時にできたのは一方的に謝るだけ。何の落とし所も提案できない。スタッフの方の中には「おまえが金おろして払えよ」とまで言う方もいた。土下座をして謝るしかなかった。事情を鑑み、やさしい言葉をかけてくれた人の前では、30も半ばの男が言葉を紡ぐことができずに泣くこともあった。謝罪行脚は想像以上にこたえたが、2ヵ月ほどをかけてすべての方への謝罪を終えた。同じようなタイミングで最後に雑誌の事業譲渡の話を聞いてくれた出版社に呼び出され、喜び勇んでいったが正式にお断りをされた。会社に呼んでくださったのは、僕に一緒に働かないか?という提案をしてくれたからだった。少し考えます、とだけのこして重たい足で銀座を歩いた。駅に向かう途中電話が鳴り、出るとなじみのカメラマンからだった。
「ちょっとは落ち着いたかな?って思って連絡したんだけど、譲渡先見つかりそう?」
 そんな電話だった。
「いえ、ちょうどさっき最後のところに断られました…」
 正直に伝えた。入社したときから一緒に仕事をしてきたカメラマンで、僕が編集長になってからはよく表紙の撮影もお願いした人だった。
「そっか…。残念だね。これからどうするの?」
「編集の仕事は続けたいですけど、未払いとかもやらかしちゃいましたし、ちょっと今はどうするか考えられないですね…」
「雑誌を作りつづけるならまた一緒に仕事しようよ。俺との関係がこれで終わるわけじゃないんだからさ」
 ハッとした。そう思ってもらえるなんて考えもしなかったからだ。
「未払いもあったのに…すみません…ありがとうございます…」
 涙で言葉が詰まった。
「たいした額じゃないよ。それより俺はまた一緒に仕事したいからさ。次が決まったらいつでも連絡してよ」
 そう言って電話は終わった。
 たいした額じゃない、なんてことはない。倒産した後に知った彼への未払いは200万円を軽くこえていた。それでもまた一緒に仕事をしたいと言ってくれた言葉が力となり、僕はまた次の雑誌で編集長をすることになる。2014年の春、銀座のど真ん中でいい大人が涙を流しながら歩いている姿を目撃したなら、それは電話後の僕だ。