『誰かが、あなたと。』
「そこ座ってもいいかな」
春に春を重ねたような声。まばらな木漏れ日がページの上で揺れる。僕は栞をそっと挟んで本を閉じた。まだ、随分とページは残っている。
「あ、そこは座らないでほしいんだ」
「え、どうして?」
困惑した声も春の趣。彼女は続けてさえずる。
「誰か、来るの?」
「あ、うん。おとうとが来るかもしれないんだ。ほら、そこに仮面ライダーのシールが貼ってあるでしょ。だいぶ剥がれかかっているけど、そこ、おとうとの指定席なんだ」
「あ、そうだったんだ、失礼。じゃあ、こっち側だったら座ってもいい?」
そう言って彼女は僕の左隣に回り込んだ。
「もちろんどうぞ。ごめんね」
「いいえー、お邪魔します」
彼女はふわりと腰掛ける。人は二種類の座り方をする。体重をかけてドスンないしはストンと座るタイプと、体を少し浮かせるようにふわりと座るタイプだ。地球の重力に対して、人がささやかな抵抗をしている感じがして、僕は、後者の方が圧倒的に好きだ。しばらく空を眺めていたかと思うと、彼女はゆっくりと僕の方を向いて口を開いた。
「私のこと、覚えてる?」
目を覗き込まれてドキッとした。僕は正直に答える。
「これを言っても信じてもらえないかもしれないんだけど、……覚えてる」
「うそ、意外」
彼女は、びっくりするくらい低い声で反応した。
「ただね」
「うん」
「これを言っても失礼極まりないんだけど」
「はい」
「どうしても名前を思い出せない」
春風が、空気中のみずみずしさをいっぱいに纏って通り過ぎても、彼女は口を開かない。
「でもね、君だけじゃないんだ。あの教室にいた人の名前はだれも思い出せない。ちょっと前にこの公園で暴れていた人たちもいたけど、誰も名前が分からなかった」
僕は残念な自分を演じることで、言い訳を組み立てる。
「ふーん。でも、名前なんて誰かが勝手につけたものだし、本人にとっては、大して意味もないのかもしれない」
ロマンのない物言いも、彼女の声は素敵に響かせる。
「そうかな。最近、そうでもないって思ってる。僕に夢のような時間をくれた子がいてね。その子は大きな夢って書いて、タイムっていう名前だった」
「へー、たいむのショータイム。いいかも。でも、ショータイムは長く続かない。だから、あなたは一人でここにいるし、隣の指定席は空席のまま」
ベンチに並んで話していると、どこを見ていいか分からない。それに彼女ときたら、ずっと僕の横顔を見ている。返す言葉を考えていると、彼女はポンと跳ねるようにベンチから立ち上がって僕の前に立った。
「あ、そろそろ帰らなきゃ。今日、宿題がいっぱいあるんだ。祥くんまたね。ごきげんよう」
「あ、うん」
ごきげんようなんて使う人に初めて会ったから、まともに挨拶出来なかった。去りゆく後ろ姿を目で追う。
薄手のグレーのニットと、軽やかに揺れるラベンダーのスカートが、彼女によく似合っていた。名前、聞き忘れちゃったな。
学校に行かなくなってもうすぐ二年。公園の番人としての僕の地位も、確固たるものになってきた。犬の散歩をしているマダムとは、会釈を交わすし、園児たちに遭遇する時は、「本のお兄さん」で人気を博す。ジョギング中のお姉さんは、常に一定のリズムを刻みながら僕をちらっと見て通り過ぎて行くし、向かいのベンチに腰掛けるおじさんは、「そのうち、雨が降りそうだな」しか言わない。
〝常連さん〟が作る空気が心地よい。もちろん、僕がいない時間帯には、まだ見ぬ神秘が隠されているのかもしれない。お昼休みに会社員と女性が淡々と話をしていたりとか、夜な夜なギャングボーイズが集結していたりとか。
ブランコ、シーソー、滑り台。
欅、桜、プラタナス。
ここは公園たるアイデンティティをきっちりと備えている。台風で壊れたベンチがいつになっても修復されないことだけが、玉に瑕だ。
六年生。小学校のイベントは、次々と最終回を迎えて行く。プール教室、修学旅行、運動会。みんなが思い出を重ねる。でも、誰かの思い出の中に僕はいない。公園での日々は、思い出とも最終回とも無縁だ。僕は、欠落の多い小学生なのかもしれない。でも、それでいい。ブラッドベリも言っている。『インスピレーションを与えてくれるのは、欠落だ。充足ではない』ってね。
果たして今日も読書が進む。宮下奈都は、静かな描写が綺麗で、読んでいると心が澄んでいく。この『ふたつのしるし』も名作。僕は、ちらりと滑り台の方を見た。誰もいない。再び本に目を落とすと、ふうわりと影が横切った。
「こっちだったら、オッケーだよね」
宮下奈都を上回る透明感。また、会えた。
「祥くんはさ、人と関わらないじゃん。いつも自ら一人でいる感じ。カッコつけてんのかなって思った時もあったけど、あまりに自然で、しかも祥くんの周りの空気が少しゆったり流れているように見えてた。だから、授業中当てられてドキドキした時とかに、祥くんの方を見たら落ち着いたんだ」
「褒めて…る? まぁ、でも、僕は普通、他の小学生から好意的に見られることはないよね。僕も同じ教室に僕がいたら嫌だ」
ハハハー。
ハミングで歌っているようにしか聞こえない笑い声が、公園に響く。いつも一人でいる僕が女の子と楽しそうに話している姿は、常連さんたちにはどう映るんだろうか。葉桜が茂り始めて、葉っぱの緑が太陽に透けている。
「中の上コンプレックス」
彼女は、おもむろにつぶやいた。なんのことか分からないけど、コンプレックスと共に生きている僕は、強めに興味を惹かれる。
「気がつくと中の上。至って中の上。腐っても中の上」
何かの標語みたいだ。
「私、『中の上コンプレックス』なんだ。例えば、外見。『笑顔がかわいいね』と⾔ってくれる⼈もいるけど、男の子たちの〝好きな人〟に名前が出てくることはない。⾝⻑もクラスの⼥⼦で後ろから十番目」
彼女は、ベンチで足をブラつかせながら言う。僕よりも少し身長は低い。
「そして、勉強。テストはいつも八十点か九十点で、満点なんかめったに取れない。さらに、運動。跳び箱は、六段は跳べるけど八段は跳べない。ポートボールではキャッチしてパスはできるけど、ゴールはできない」
公園の中は人がまばらだ。天気は悪くないのに。
「でもね、『これでいい』なんて思ってないんだよ。派⼿なのは嫌いだけど、似合う服を着たいし、髪を染めて目立つわけにはいかないけど、髪型はちゃんとかわいくしたい。褒められるような点数や成果は残せないけど、勉強や宿題もベストを尽くす。私は⼀⽣懸命やって、本当に頑張って、かろうじて中の上にしがみついてるんだ」
肩にかかるくらいの髪は、部分的に丁寧に編み込まれている。こないだ会った時とは、また違う感じ。
「スポットライトがあたるのは、すごい⼈たちだし、⼿を差し伸べたくなるのは、もっと⼤変な思いをしてる⼈たち。私たち〝中の上〟は、放っておいても⼤丈夫なんだ。きっと先⽣たちにも⾔われてるんだろうな。無害、とか」
まだ話は見えない。でも、中の上については、よく分かってきた。十メートル先の地面に向けて言葉を放っていた彼女が、ひゅっと僕の方を向いて言う。
「祥くんは、ちょっと特別じゃん。祥くんは、スクールカーストの外側」
六年生でもスクールカーストってあるんだ。キャラの順位づけなんて、中学生以降の話だと思っていたけど。
──キャラ、か。
「ところでさ、お話聞いててちょっと思ったんだけど」
「なに?」
「僕の⼩学校での記憶は曖昧だから、失礼極まりないんだけど……、君、そんなキャラだったっけ? こんなにしゃべる⼈っていう印象(いんしょう)なくて」
「学校でこんなふうにしゃべってたら嫌われちゃう。ニコニコしてなきゃ」
「なるほど。そうか、⼤変なんだね。でも、今の君の⽅が素敵だよ」
公園の対面にあるブランコが揺れた。ブランコは⼈が乗ってなくても揺れる。
彼女は、しばし無言になったけど、すぐに切り返してきた。
「ところでさ、〝君〟じゃなくて〝彩〟って呼んで。その⽅が話しやすい」
女の子を呼び捨てで呼んだことない。どうしよう。
「『女の子を呼び捨てにするのは、抵抗がある』とか思ってそう。そんなこと気にしてると生きていけないよ、祥くん」
バレてる。
「わかったよ、彩」
ちょっとドキドキしながら呼んでみた。うん、思ったより悪くない。僕は続ける。
「彩は、〝中の上〟を連発するけど、ぼくにとって、彩は十分に特別だ。あの教室で顔をはっきり覚えているのは彩だけだよ」
彩が僕を見る。
「一般的に小学生は、『中の上コンプレックス』なんていう⾔葉は使わない。⾃分の現状をこんなに⾔語化しない。それに」
「それに?」
「彩は、声がきれいだ。クラス中の誰よりもきっと」
中の上コンプレックスの人は、何を基準にして中の上って言っているんだろう。誰の基準なんだろう。
「私はね。置かれた環境の中で、中の上なりにやってる。なるべくいつも笑顔でいようと思ってるし、頼られたら応えようと思うし」
「うん。だから、僕も覚えてる」
「でもね」
春って光が柔らかいから、太陽が雲で隠れると⼀気に空気が重くなる。
「いじめが始まった。男⼦に好かれようとしててウザいって、冴ちゃんが。あ、冴ちゃん覚えてる? 六年⽣で多分⼀番かわいい⼦」
「期待に応えられなくて申し訳ないんだけど、全然覚えてない。顔も名前も」
「へぇ、やっぱり祥くん⾯⽩いね。普通かわいい⼦から覚えるでしょ」
「でも、彩の笑顔は覚えてる」
彩は、⼀瞬桜の葉の⽅を向いて、また続ける。
「うん。で、その冴ちゃんにやられてるんだよね。上履き隠されたりとか、陰で悪⼝⾔われたりとか、先⽣に嘘の情報流してトラブルが私のせいになったりとか」
ザ・いじめ、だ。
想像力が足りてない。
「あーあ、せっかく、頑張ってきたのになー。このままでは、中の上の座は危うい」
歌うようにため息をつくから、「中の上」が素晴らしいもののように感じる。
よいしょっ、と無理矢理明るい声を出して、彩はベンチから立ち上がった。
「バイバイ、祥くん。話聞いてくれてありがとう」
去りゆく彩に、僕は今日も別れの挨拶を言いそびれる。
「バイバイの由来って、God be with you.がgood-bye.になってbye-byeになったんだよ。『神があなたと共に』。でも、God消えちゃってるから、『あなたといつも一緒』。だから、バイバイは別れの挨拶じゃない。離れても一緒だよって約束なんだ」
オリーブ色のオーバーサイズのスウェットが、一週間ぶりに公園にきた彼女の小顔を引き立てる。僕は真剣な顔をして聞いていたけど、猫があくびをしながら通り過ぎた。この猫、初めて見るな。こんにちは、初めまして。最高の公園へようこそ。
ピコン、ピコン。
スマホの通知音が連続で鳴った。
「あれ、祥はスマホ持ってるんだ」
「うん。色々複雑だからね、我が家。持たされてる」
通知を見ると、圭司からだった。タップして開くと、ベンチでのけぞるように笑う僕と、僕に微笑みかける彩の写真だった。冗談だろ。いつ撮ったんだよ。こんな風に笑ったかな、僕。
「えっ、何それ。見せて見せて」
彩にスマホを奪われる。画面をじっと見つめて、指で拡大したり動かしたりしている。
「ごめん、嫌な気持ちになったかな。盗撮だよね、こんなの」
「ううん、全然。すごくいい写真。誰から? 圭司、さん?」
「そう、圭司。うーん、お父さんっぽい友だち……、いや、友だちみたいなお父さん、かな」
説明不能。圭司、早く正体を明かしてくれ。
「何それ、ウケる。そうか、複雑なんだったね。それはそうと、この写真の私、かわいい。上の中くらいまでは、いけたな」
彩の声が最上級の調べを奏でる。
「圭司さん、プロかなんか?」
「プロなのかな。そういえば知らない。でも、いつもカメラ持ってる。あと、海が嫌い」
圭司、しばらく会ってないな。
「ねぇ、その写真、ちゃんと保存しといてね。私がスマホ買ってもらったら、すぐ送ってもらうから」
彩は今日も笑う。何かを隠すためであっても、人は目映く笑うことができる。
「バイバイ、祥」
安全地帯を出るのは、現状を打破する本能である。赤ちゃんが立ち上がる、良い子が親に反抗する、会社で新規事業を立ち上げる。いずれも「今の自分」を塗り替えて次のステージへ行くための儀式だと言っていい。
かくして僕は公園を飛び出した。そして、あろうことか小学校の前にいる。
一人たりとも顔を覚えていない教師、誰もが同じ顔に見える元クラスメイト。話しかけられても、分からない。おまけに僕は、感じ悪いことで有名だ。
そんな僕が、身の危険を顧みず、のこのこやって来たのは、人探しのためである。
〝冴さん〟、を探している。しかし、僕が彼女について持っている情報はただ一つ。〝六年生の中で一番かわいい〟だ。自分への値踏みを生業にしている彩の評価だから、信頼に値する。
一方、困ったことに僕の目は、まったくもって信頼できない。かわいい、かわいくないってどうやって判断すればいいのだろう。
校庭の砂ぼこりを生温い風が運び出す。学校が終わったのか、一斉に生徒が吐き出されてきた。あまりの数に僕はめまいがし、長期戦を覚悟した。キャップを被り直して気合を入れる。すると、程なくして前を女の子の一団が通り過ぎた。
「推しのライブのチケットがね、明日発売なんだ。ママにお願いしたら、絶対取るってママ張り切ってた。冴の分も取ってもらうからね」
「ホント? ありがとうー真琴。愛してる」
……冴って言った。
刹那、女の子の顔を盗み見る。うん、確かに整っている。これが学年一のかわいさ……なるほど、勉強になった。マイペースな僕としては、収穫があって満たされたので、立ち去りたい気持ちでいっぱいだったけど、今日はそうはいかない。
祥は激怒した……わけがなく、一晩考えたシナリオでは、さも偶然通りかかったかのように、ゆっくりと近づいて、怪しまれないように、優しい声色で、冴さんの名前を……
「あれ? 祥くん」
少し鼻にかかった甘えた声。苦手かも。
「やっぱり、祥くんじゃん。久しぶりだねー。全然学校来ないからどうしたのかなーってこないだも優と話してたんだ。元気?」
想像力を働かせる。カースト最上位に鎮座する冴さんは、自己顕示欲も承認欲求も相当に高いはず。
「冴さん、久しぶり。相変わらずきれいですね」
「えっ私のこと覚えてるの? 嬉しい!」
口に両手を持っていき、驚いた表情を見せた。満面の笑みで取り巻きのみなさんを見回した。確かに魅力的なルックスなのかもしれない。だけど、その裏を僕は知っているし、みんなも気づいている。それでも、〝表〟の強さこそが、小学校では評価される。
「祥くん、まだあのマンション住んでるの? すごいよね、あそこ。一回、中見てみたいなー」
割と僕のことをよく知っていらっしゃる。僕は、平常心を保って実に自然に切り返した。
「あのさ、彩さんっているよね。同じクラスの」
彩の名前を出した途端に、顔色が変わった。でも、一瞬で元の表情に戻す。手品みたいだ。
「……彩が、どうしたの?」
低くなった猫なで声はなんて言うんだろう。どら猫声とか。
「最近、クラスでいじめられてるって話を聞いたんだ。男子の、ほら、えっと、割と中心の……」
ほら、こないだ公園で偉そうに滑り台すべってたあの人。
「卓馬?」
「そうそう、卓馬から」
ふーん。
冴さんは、すごく嫌な感じの『ふーん』を言った。高そうな素材の赤いスカート。
「祥くんさ、なんでも分かってますって顔してるけど、なんも分かってないね。卓馬が言うわけない」
「あ、卓馬じゃなかったかな。僕、記憶が曖昧で」
同世代コミュ障の僕としては、健闘している。冷静かつ穏やか。この調子だぞ、祥。
「卓馬はさ、私のこと好きなんだ。私が不利になることなんていうわけない」
おっと。カウンターチャンス。
「僕は、冴さんがいじめてるなんて一言も言ってないんだけどな。あれ? その物言いだといじめてるのは冴さんなの?」
僕のカウンターはきれいに決まった。そして、急に冴さんの顔の温度が下がる。そして、上がる。表情が豊かで羨ましい。
「っていうか、祥くんと彩って何? どんな関係? 付き合ってんの」
怒ってる。確実に怒っている。
「いや、そういうのじゃないんだ。こないだ、彩さんが泣きながら公園を通り過ぎたのを見たから」
言い訳っぽかったかな。攻撃的な人は不得手だ。
ハァー。
これ見よがしなため息。
「祥くん、もう用は済んだ? すごく気分が悪い。だいたいさ、学校来ないのって、別にかっこいいわけじゃないんだからね。みんな、何かを抱えて、何かに負けて、それでも何かを信じて学校に行ってるんだよ」
整った顔から歪んだ言葉が漏れる。やっぱり僕はこの人をかわいいと思わない。そして、冴さんは尚も続ける。
「祥くん、噂になってるよ。一人で住んでるって。『僕は一人でも平気です』ってオーラ出てるけど、小学生が一人で暮らすなんて、この日本じゃ認められてないんだからね。行こっ、優、真琴」
プイッと音を立てて冴さんは去っていった。
他の二人も同じくらいの悪意を僕に向けて追随する。
噂になってるなんて、僕、有名人じゃん。
「ねぇ、祥。余計なことしたよね?」
花粉症ではない僕が花粉が舞っているのを感じるくらい春だけど、空と彩の顔は曇っている。花曇りというと聞こえはいいが、まったく穏やかではない。
「僕は余計だと思ってなかった」
近くて遠いヒヨドリの鳴き声に紛れて、彩が続ける。
「ごんがさ、兵十の家にいわしを投げ込むのとさ、同じことを祥はしてる」
教科書のあの不思議な絵が頭に浮かんだ。
『ごんぎつね』は教室で授業を受けたかもしれない。
「私、さらに追い込まれてるよ。祥は、それを望んでいたってこと?」
彩の声で咎められると、もう僕の負けが決まったような感じになる。
「ごめん。そんなつもりはなかった。僕に出来ることはないか、と思ったんだ」
一定速度でジョギングをすることで定評のあるお姉さんが、うっすらとこちらに興味を示し、速度を緩めたように感じた。不穏な二人、気になりますよね。
それにしても、春が春であることを忘れているくらい今日は寒い。薄手のシャツを着ている彩が心配になったけど、彩はずっと僕の方を見ない。
「『何かをしてあげよう』は、残酷な自己満足なんだよ」
当事者でもない僕が何かをできると考えたのは、傲慢だった。
「でもね。人と関わらない祥が、私のために動いてくれたことは、嬉しかった。ほんとだよ」
僕とは一度も目を合わせてくれない。僕は、事態を好転させる術を知らないし、発するべき言葉を持たない。
──さようなら。
彩は消え入りそうな儚さでそう呟くと、ベンチを後にした。
「黒沢祥くん?」
春の爽やかさとは無縁の濃紺のベストを着て近づいてきたのは、紛れもなく警察官だった。警察に追われた経験もある僕としては、動じない。
「はい、そうですが」
「あ、やっぱり」
僕は、初めて会った人にやっぱりと言ってもらえるくらい、やっぱり有名人。
「あのね、ある人から連絡があったんだ。君がここに一人でいるって」
或る女、と言われると有島武郎っぽさがあって、嫉妬に狂った誰かさんを想像する。
「はい。間違いなく一人でいますね、友だちがいないんです。ここに来てこうして本を読むのが日課で」
「そうかそうか。本読むの好きなんだね、今は何を読んでるの」
思いの外、優しそうに話しかけてくる。でも、心優しい刑事が鋭く事件を解決する物語はごまんとある。油断するな、僕は疑われている。
「今、読んでるのは『鴨とアヒルのコインロッカー』ですよ。伊坂幸太郎、好きなんです」
「あ、いいねぇ。僕も好きだよ。いいよね」
僕は最大限の緊張を持って、対応する。
「ところでさ」
きた。
「祥くん、一人で暮らしてたりするの? そんなわけないと思うんだけど、もし、小学生が困っているなら力になってあげたいなって思って。おうちの方は?」
お父さんか、お母さんは? って聞かないんだ。警察官にとっても『何かをしてあげよう』は自己満足なんだろうか。
「一人で暮らしているわけではありません。今は仕事に出ていますが、母は帰ってきます」
嘘はついていない。でも、僕のことを見つめる警察官の目は、猜疑心でいっぱいだ。
「ちょっとさ、お話聞かせてもらってもいいかな。お母さんにも、僕から連絡を入れるから」
児童養護施設へようこそ。そう、聞こえた。
「ん? どうしたの」
なんか言わなきゃ。でも、僕の口からは何も出てこない。
「じゃあ、ちょっと一緒に来てく……」
えーん、ゔわぁー
公園中に響き渡る泣き声。
「えーん、おにいちゃん。おにいちゃーん。どこいったのー。ゔわぁーん」
泣き声の発信源は、滑り台の上だ。見覚えがあるラルフローレンの服を着ている園児。
──想像力は、最強だ。
「お巡りさん、あの子、大丈夫ですかね」
「さすがに園児は、公園に一人では来ないよ。君と違ってね」
外堀を埋めながら本題にジリジリ近づいてくる感じ。手強い。
えーん、ゔわー、うぉーんうぉんうぉん。おにいちゃーん。ママー。
「おぉ、なかなかすごい泣きっぷりだな。祥くん、ちょっと一緒に見に行ってくれないかな」
僕を逃がすまいとする強い意志を感じる。
「さぁ、行こうか」
警察官がそう言って今度こそ僕の手を取ろうとしたその時、天使の声音が泣き声とハモる。
「お巡りさん、あの子、滑り台から落ちそうになってる! 助けてあげて」
警察官の目の色が変わった。そして、次の瞬間、身を翻(ひるがえ)して滑り台に向かって全速力で走り出す。あぁ、この人は本当にやさしくて優秀な警察官なんだ。
「祥、こっち」
警察官の代わりに、天使が僕の手を引いてくれる。僕たちは、公園の出口に向けて走り出した。足元のカモミールが揺れる。不覚にも『前前前世』のメロディが頭の中に流れたのは、秘密だ。
あの園児が、滑り台から落ちることはない。
彼は、何千回も登ってる。
僕らは、公園を出てもなお走り続けた。
運動不足な僕は、あっさりと息が切れてくる。
そして、気づいた。
「あれ。彩、めっちゃ足速くない?」
「……だから、言ったでしょ。私は一生懸命、中の上にいるって。足だけ速かったら目立っちゃうじゃん」
中の上の世界は複雑だ。
踏切に到達して、足を止める。
警報音が規則正しく鳴り響き、赤い警告灯が行ったり来たりする。
彩、ありがとう──。僕の声は、電車が通り過ぎる轟音に紛れた。彩は何も言わずに、僕の手を少しだけ強く握った。一本の電車が走り去っても、警報音は続く。
彩の手、僕の手より小さい。
不意に、そして不本意に涙がこぼれた。僕は、彩に気付かれないようにさっと拭った。横を見た。目が合った。
ひと雫。
そして、さらにひと滴。
それから、とめどなく溢れる涙。そして、嗚咽交じりに僕は言っていた。
「もう、あの公園には行けない」
公園での安寧な日々は、唐突に最終回を迎えた。
やわらかかった日の光は、やがて重さを湛えて、いよいよ輝きを失った。少し急ぎ足で彩の家へ向かう。繋いだ手はもうほどいていたけど、僕の隣には彩がいた。
「祥、このへんで。──バイバイ」
彩はひときわ力を入れてその言葉を発し、小さく手を振った。僕も、心を振り絞って返す。
「うん、バイバイ」
やっと、言えた。
薄暮の迫る街並みを僕は実にトボトボと歩いている。明日からのこと、考えなきゃ。
でも、疲れた。横になりたい。
家まで一キロくらいか。まだ遠いな。そう思って顔を上げると、重そうな濃紺のベストを上下に揺らしながらこちらに近づいてくる人影を認めた。
ゲーム、オーバー。
「祥くん、探したよ。突然、走り出すからどうしたのかと思った。警察官に話しかけられたからびっくりしちゃったかな。ごめんね」
どこまでも優しいから、こちらも反抗する意志がなくなる。
「今日は遅くなっちゃったから、家まで送るよ。また、話聞かせてね」
警察官は、僕の小さな歩幅に合わせて歩く。十五分ほどの無言の道のりを経て、マンションの前に着いた。遅かれ早かれ家の場所は知られてしまう。特にそのことは気にしなかった。
そして、次にこの警察官に会うときは、僕がこの家を出るとき。
僕の嘘は、ここまでだ。
風が頬に当たるとひんやりした。あ、また泣いてるのか、僕。
警察官に挨拶をしようと一歩を踏み出そうとした時、カシャッという音が聞こえた気がして僕は足を止める。
カシャ。もう一回。
「想像力は、最強か?」
暗闇がしゃべった。
しかして僕は涙を止めて、想像力を取り戻した。
「お父さん、変なところ写真に撮らないでよ」
オトウサン、おとうさん、お父さん。
僕には、お父さんがいた。
写真が大好きで、海が嫌いで、いつも突然なお父さん。
「えっ、お父さん?」
エントランスの光に照らし出された警察官の呆気に取られた顔に、僕は思わず吹き出しそうになった。
「杉森圭司と言います。祥の父親です。事情があって苗字は違いますが。母親が多忙なので家を空けるときもあって、そのときは私が祥と一緒にいるようにしています。今日は祥がお世話になったみたいで、すみません。ありがとうございました」
圭司がきちんと話していることにまず驚いたが、つじつまもあってる。これならいける。警察官は、圭司と僕の顔を見比べて、どこか納得したようだった。
「……いえ、こちらこそ。祥くんに変なことを言って混乱させてしまったかもしれません。もし、ご家庭のことで何かご協力ができることがあれば、いつでも頼ってください」
引き際が良い警察官。圭司は、僕の頭を撫でながら言う。普段ならやめてくれと手を払うところだけど、今日は無抵抗で。
「近くまで来たから、祥がそろそろ公園から帰ってくるかなと思って待ってた。今日は、雫……ママが、帰ってくる日だよな。なんか仕事変わったとか言ってたから、家にいる日も増えるかもしれないぞ。俺、行くわ」
じゃ、失礼しまーす。圭司はいつものテンションで、去っていった。
僕も警察官に一礼して、マンションの自動扉をくぐる。
想像力は、最高だ。
イロハモミジは、青々とした生命力を感じるこの時期の方が好きだ。人々の半袖率は日に日に増し、滑り台は強烈に日光を反射する。アイリスの香りを帯びた薫風を感じながら、僕は今日もベンチにいる。
いつの間にかベンチに貼ってあるシールが増えていた。今度のは、仮面ライダーギーツっていうらしい。でも、僕はリバイスの方が好きだ。
「祥くん、こんにちは」
「中谷さん、こんにちは。今日は少し暑いくらいですね」
「そうだね。警察の服、暑いんだよ。早く夏服にしたいよ」
中谷さんはきれいにアイロンがかけられたハンカチを取り出して、額の汗を拭く。
「今日は、何読んでるの?」
「『三四郎』です。急に読みたくなって」
中谷さんは、一瞬オッという顔をして、含みのある笑いを見せた。
「ふーん、なるほどね。君が急に読みたくなった気持ち、分かるよ」
そして、ヨイショ、と言って立ち上がる。相変わらずベストは重そうだ。
「じゃあ、またね。三四郎の次は、『潮騒』あたりをおすすめしておくよ」
中谷さんは、いつも長居しない。いい人だ。彼の後ろ姿に手を振って、再び『三四郎』と向き合った。
ピコン。通知音──圭司からだ。
開くと、『偶然は必然』とメッセージ。
そして、写真。
彩が僕の手を引いて公園を走り抜けるショット。彩の美しいフォームに対して、手を引かれる僕は今にも転びそうだ。
おいおい。圭司いたのか、この時。
どうりで、タイミングよく家の前に現れたわけだ。
でも、大ピンチだったはずの瞬間、二人の顔はわずかにほころんでいる。
写真は嘘のように真実を切り取る。
ピコン。
続けてもう一枚。
小学校の校庭。運動会だ。
喧騒が聞こえてきそうな観衆をバックに、彩が一位でゴールテープを切っている。超いい笑顔。
僕は、二枚の写真をスマホに保存した。
陽が傾いてくると、公園は急速に静かになって、その姿を変える。僕も帰る。
『三四郎』、面白かった。『潮騒』も読んでみよう。
煌々と光を放つマンションのエントランスをくぐり、エレベーターで17階のボタンを押す。
部屋の前でオートロックを開けると、ひやりとした空気が流れてきた。
エアコン、消し忘れたかな。
そんなこと思っていたら、ふわりと懐かしく柔らかな声がした。
「おかえり、祥」
僕たちは嘘に塗れて生きてるけど、生きてる僕らは嘘じゃない。
バイバイ
『僕たちは嘘をついている』三部作
①『僕たちは嘘をついている』
②『線の引き方』
③本作
みなさんから「スキ」や「フォロー」をいただけると、「書いてよかったな」「何かを伝えられたんだな」と励みになります。お読みいただき本当にありがとうございます。これからも良い記事や小説を執筆できるよう頑張ります。