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『オン・ザ・ウェイ』

 僕は、学校に来ている。
 鳥のさえずりが、クラスメイトのざわめきに。木漏れ日とベンチは、長細い蛍光灯と硬い椅子に。僕を魅了していた物語は、教科書とタブレットに。ちょっと初々しく、少しうんざりで、それなりに楽しみだ。
 僕は、学校に来ている。


「セオリーを考えよう」
 人差し指を立てながら、伊藤先生は口にする。
 まだお互いが距離感とキャラ感を探っていた四月初め。卓馬は、「セオリーとか知らねぇし」なんて楯突いていた。
 でも、カースト最上位の冴さんが「伊藤先生っていいよね、若いし、美人だし、説得力ある。伊藤先生が担任で良かったー」と言ってからは、事あるごとに「で、セオリーは?」とか言ってる。卓馬の人間関係のセオリーやいかに。

 さて、伊藤先生が美人かどうかについては、僕は相変わらず判断の基準を持たないわけだけど(黒縁の四角い眼鏡はよく似合っていると思っている)、「セオリー=theory」という言葉にはなかなかの魅力があった。
 結ぶ必要がないくらいの長さの髪をキュッと後ろで束ねている姿は凛々しいし、伊藤先生がthの発音を美しく自信を持って発すると、物事には決まり事ってあるんだよ、と妙に響くものがある。その意味で、自分の中では革命的なくらい、伊藤先生は先生だった。

 今日も朝のホームルームで伊藤先生が言った「討論のセオリー」について、僕はずっと考えていた。時には頬杖をついていたかもしれない。頬杖をつくとやる気なさそうに映るみたいだけど、頬杖は思考を促進してくれる有効なフォームだ。世界で最も有名な思考の象徴、ロダンの『考える人』だってそうしている。

 しかしながら、先生たちには不評で、「聞いてるか、黒沢」と何度も言われる羽目になる。──ごめんなさい、聞いていませんでした、討論のセオリーを考えていました──とは、言わない。そこで「すみません」というのが、中学校のセオリー。僕も分かってきた。


 その日が来たのは突然だった。 

 警察官に追われたり、初めて女の子と手を繋いだり、本当にいろんなことがあった日、家に帰ったらママがいた。ほぼ三年ぶりに家に人がいたから、僕は「ただいま」という挨拶を失っていて、つい「どなたですか」と言いそうになった。
 
 ママが笑顔で玄関まで出てきてくれたので、「ママ!」と抱きついた……はずもなく、ほどなくして「あぁ、ただいま」と狼狽しながら言った僕は可愛げのない息子である。でも、ただいまの四文字は懐かしくて、やっぱり嬉しくて、そして照れくさかった。

 ママは「仕事が変わって在宅ワークになった」と言っていたけど、恋人と別れたんじゃないかって僕は予想している。「在宅ワーク」とやらはどうも暇そうで、よくNetflixでドキュメンタリーを観ている。でも、そこで「ママ、仕事暇なの?」と聞くほどぼくは野暮じゃなく、『公園に行ってくる』とメモを置いて定位置に向かう。

 もちろん、ママは僕が小学校に行かずに、公園にばかりいることを知っている。きっと学校から何度も連絡が来ているはずだけど、そのことについて何かを言われたことはなかった。

 ともあれ、僕は一人じゃなくなった。警察官に嘘をつく必要も、もうない。
 公園から帰って、「ただいま」を言う。キーボードを叩く音がするときはこっそりと、テレビから音がするときは、大きめに。「おかえり」の響きはとても甘美で、同時にいつ失われるか分からない怖さもあった。
二人暮らしが始まって二週間。ママがめずらしく忙しそうだったので、僕がチャーハンを振る舞った日のことだ。

 ママはお風呂上がりにドライヤーをかけながら、轟音に負けない大きな声で「中学校には行きなさい」とまさかの発言を口にした。ぼくは驚きのあまりドライヤーがしゃべったのかと思ったが、鏡の向こうのママの目はしっかりと僕を見据えていた。

 真意は分からないが、しかして僕は中学校に行くことになった。


 中学校という場所は、小学校とは異質だ。担任の先生とは一日に数回しか会わないし、体育は男女別になる。先輩という存在が突如として出現し、生徒は毎日制服を着る。そう、制服。こればっかりは本当に残念だ。

 右を見ても紺。左を見ても紺。色彩を奪われた、紺色の子どもたち。伊藤先生も顔は華やかだけど、服装は至って地味な色で統一されている。伊藤先生のクローゼットはさぞかし落ち着いた雰囲気なのだろう。きっとこれもセオリー。

 1年2組の担任、28歳の伊藤先生は英語の先生である。
 発音に厳しい。とにかく発音に厳しい。アイ ライク リーディング ブックス……なんてカタカナ英語を使った日には、ELSAっていう発音アプリで課題が大量に出される。大学でアラスカに留学した時、自分の英語(英検1級)が全然通じなくて、その原因が発音にあったと気づいたことから「英語のセオリーは発音。異論は認めない」となったようだ。

「OK, next. Mm…Sae, How do you feeling lately ?(冴さん、最近どう?)」
「I am enjoying my junior high school life. I love this class.(中学校生活を楽しんでいます。このクラスが大好きです)」

 今日もキラキラと英語を操る冴さんの発音はexcellentで、僕の発音はバッド。卓馬は、とぅーばっどである。 


 帰り道っていい。時間に縛られて動かなくていいし、立ち止まりたい時に立ち止まり、進みたい時に進む。ずっと帰り道だったらいいのにって思うけど、「行き」がなければ「帰り」もない。「行った」ご褒美としての「帰り道」。うん、いいね。

 今日を過ごしきった満足感に浸りながらもやもや考えていたら、青信号が点滅して、赤に変わった。待つのも悪くない。なにせ今は、帰り道だ。

「祥、こんにちは」
 車の音に紛れることなく、僕の名が奏でられた。
 中学生になって少しだけ身長も伸びた彩は、声の透明度が一段と高まっている。クラスは分かれてしまったけど、小学校に行っていなかった僕にとって、数少ない、いや、唯一と言っていい知己だ。

「祥、学校どう?」
 彩にかかれば、ありふれた質問もメランコリック。彩の私服は色使いが素敵だったから、みんなと同じ制服になってちょっと残念だ。
「うん。思っていたほど、悪いわけじゃない」

「いじめられていませんか?」
 軽やかに心配事を聞いてくれるから僕も答えやすい。
「大丈夫。僕をいじめても面白くないし、メリットもない」
 ……確かに。ささやくように呟きが漏れる。あんまり納得されても複雑だ。

「そうそう、二組といえば、冴ちゃん」
 ヘアピンで留めたショートヘアがぬるい風に少しだけなびく。もう夏も近い。
「冴さんは相変わらず女王様で、その君臨は堂々たるものだよ」
「君臨って」彩が噴き出した。冴さんにいじめられていた過去、もう大丈夫なのかな。

「そう言う彩は? 中の上、うまくやれてる?」
 彩は自称、中の上。中の上であることこそ彼女のアイデンティティ……だった。 

「うーん」
 人の顔をまじまじと見るのは苦手なんだけど、彩の顔はつい見てしまう。だって、彩の表情の変化ときたら豊かな旋律のようだから。そして、今はさしずめショパンのノクターン。

「うーん」
 重低音で同じフレーズを繰り返す。
「祥はさ、ちょっと特別じゃん。学校行ってなくても勉強できるし、何でも知ってるし、顔もかっこいいし、足は……遅いけど」
 嬰ハ短調は続く。

「でもさ、誰から見ても特別なら、それって特別ではないんじゃないかなって思ったり。私は中学に入っても、中の上にしがみついているし、目立った存在じゃない。班長には絶対ならないし、生徒会なんてもってのほか。誰もそれを私に期待していない。でも、そんな私でも、私にとって私は特別。だって、たった一人の大事な自分だから」
 自分の発する言葉を丁寧に掬い取るように、僕に幾許かの気を遣いながら、続けた。

「中の上、やめようかな」
 ピコン、LINEの通知音。
 彩はチラッと見て、すぐにポケットにしまう。見るつもりはなかったけど、目に入ってきたスマホの待ち受け画面は、見慣れた公園のベンチ。そして、表示された通知名は見慣れない「仲川せんぱい」だった。

 いつものふわりとした笑顔を見せて踵を返す。バイバイ、口は確かにそう動いたけど、あの美しい声は聞こえなかった。

 彩の帰り道は、まったくの反対方向だ。


「今日は伊藤先生お休みなので、代わりに授業します」
 朝のホームルームにいなかった時点で、少し不穏な空気はあった。でも、「遅刻です」と説明を受けたら、あぁそうですか、と思うしかない。でも、二時間目にして「お休み」に変わったのは、やや不可思議だった。

 ベテランの吉田先生が図太い声で、グッドゥモーニンエブリワンと挨拶をすると、教室は鎮まり返った。おはようの挨拶で空気を澱ませる吉田先生は、なかなかの能力者だ。
 卓馬は眠り、冴さんは黙る。僕にいたっては、学校を休むときのセオリーってなんだろうって考え始めたから、吉田先生の授業の視聴率は惨憺たるものだった。

 誰もいない校庭の真ん中から蝉の声が聞こえてくる。去年の夏までは、蝉の大合唱の中で読書をしていたのに、もう今はうるさいなって思う。教室は冷房が効いていて快適だ。僕はもうあの場所に戻れない身体なのかもしれない。
 随分と長い吉田先生の授業が終わった。不快なものからは距離を置きたくなるため、モチベーションが低いと時間の経過は遅く感じる、ってどこかで聞いたことがある。

「吉田、終わってんな」
 卓馬が授業終了と同時に大声で言うから、先生に聞こえたんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、どうせ怒られるのは卓馬だし、僕には関係のないことだった。解放された教室は、若さを取り戻し、クラスメイトたちは3時間目『音楽』の移動教室に備えて、机の中やロッカーからリコーダーを取り出した。

「冴、一緒に行こー」
 移動教室くらい一人で行けばいいのにと思うけど、トイレも一人で行けない人たちにそれを望むのは酷だろう。4、5人の女子が冴さんを取り囲んで後ろの扉から出て行くと、急に教室は静かになった。廊下をペタペタと歩く上履きの音も遠ざかっていく。
 誰かが教室の電気を消しちゃったから、妙に外が眩しく感じる。太陽が順調に高度を上げ続けていることを確認し、ぼくもリコーダーと教科書を手にして席を立った。
 
 いちにち過ぎ、ふつか過ぎ、一週間二週間日が経って、ひと月と一日登校しても、伊藤先生は来なかった。


「ねぇ、祥くん知ってる?」
 目的語がない状態で知ってるも何もない。でも、こう聞かれたら「何の話?」と聞き返すしかない。すぐ横にしゃがんで上目遣いで僕を見る冴さんからは、いい香りがする。

 教室の休み時間ってガヤガヤしているんだけど、誰かと話していると周りの声がシュンって聞こえなくなる。だからなのか、冴さんの声はひときわよく聞こえた。

「彩、仲川先輩に告られたんだって」
 〝突然〟への免疫力の高さに定評がある僕は、動じない。えぇ、動じませんとも。窓際にいる卓馬が、部活で汚れた靴下を洗い忘れたからくさいっていう声が急に耳に飛び込んできた。冴さんは倍速でまばたきをしながらこっちを見ている。

 ややあって、かろうじて僕の口から出た言葉は、「へぇ」だった。冴さんは長い髪を指でくるくるカールさせながらアヒル口で言った。

「あ、いいんだ。彩、悲しむかもよ」
 僕には冴さんが言っていることの何もかもが分からない。
「どうして先輩に告られると彩が悲しむの? 喜ばしいことだと思うんだけど」
 冴さんは、クスッと笑う。

「伊藤先生に恋愛のセオリーでも教えてもらったら? 祥くん」
 スタッカートで僕の名前を呼び、自分の席へ戻っていった。周りの女子より短いスカートは、カースト上位の証。冴さんが軽やかに着席したと同時にチャイムが鳴った。


 僕は二人分の食材を買いにスーパーに来ている。今日は僕の当番の日。

『ご来店ありがとうございますー。18時のぉータイムセールはー、卵! 人気のブランド卵がぁー一パック200円です!』

 店内放送に耳を澄ます。うん、安い。今日はオムライスだな。ママが好きな有機栽培のしめじもカゴに入れる。豆乳ヨーグルトを買い忘れるわけにはいかない。ショッピングカートを少し速めのスピードで押す。通路の幅が広いのがこのスーパーのいいところ。

 店内奥に並んだ色とりどりのヨーグルト。緑色の蓋の豆乳ヨーグルトは、ラスト1個だった。セーフ、と思って取ろうとしたら、スッと手が伸びてきた。

「あっ」
 驚きと無念が思わず声になる。オンリーワンのヨーグルトを手にした女性もきまりが悪そうに顔を上げた。

「あっごめんなさい……あっ」
「あっ」
 二人で「あっ」を輪唱する。そうさ僕らは先生と生徒。オーバーサイズの赤いパーカーを着た伊藤先生は、僕の姿を認めて「あら、奇遇だね」とクールに言いつつも身をすくめて「スーパーってどうしてこんなに寒いんだろう」と続けた。一か月ぶりに会った伊藤先生は、心なしかやつれているように見えた。

「それがセオリーだからですよ」とここぞとばかりに返す。
 先生は、スーパーの冷房よりはいくらか柔らかく笑った。
僕は、先生が豆乳ヨーグルトを譲ってくれないだろうかと真剣に眼差しを送ったが、どうも望みは薄そうだ。


「行けなくなっちゃったんだよねぇ」
 友だちとの約束を気まずく断る時みたいに、伊藤先生が言った。スーパーからほど近い夕陽台公園のベンチに先生をご招待した。先生は少しパーマをかけたみたいで、以前のように結んではいなかった。

「みんな元気にしてる?」
 先生はセオリー通りの質問をしてきたので、僕もセオリーを遵守する。
「はい。でも、先生がいない喪失感があります。吉田先生は不人気ですし」
「そう」
 小声だったから「saw」なのか、「So」なのか、「そう」なのか僕には分からない。だから、僕は「そうです」とはっきりとした日本語で答えた。

「祥くんの家はさ、オートロックかな」
「あ、はい。マンションなんで」
「うちはね、昔ながらの鍵なわけ。それで確か六月初めの暑い日だったと思うんだけど」

 六月初めの暑い日。六月には残虐事件が多いと聞く。僕は身構えた。

「ちゃんと鍵をして出たはずだったんだ。手元にも鍵はあった。でも、急に家の鍵をかけ忘れたんじゃないかって心配になっちゃった。居てもたっても居られなくなって、いつもと同じ道を戻っていたんだよね」

 よく聞く話ではある。でも、〝いつもと同じ道を戻っている〟は、帰り道ではない。
「そしたら、さっき過ぎ去ったはずの道の景色が変わってた。居なかったはずのものがそこに居たんだ」
 得体の知れぬ恐怖が煽られる。先生、話し方がとても上手です。

「……アスファルトに、亀がいたんだよ」
 月とすっぽん。提灯に釣鐘。アスファルトに亀。少し拍子抜けしたけど、驚きではある。先生は、何か大切なものを包むように手の平を向き合わせて亀の大きさを再現する。

「それでさ、亀をじっと見ていたら、その場から動けなくなっちゃったんだ。私、急いでたはずなのに」
 僕はうなずき、無言で話の続きを促す。周囲の喧騒は消えている。
「ただ意外と冷静で、このままじゃ学校に遅刻するなって思って、学校に電話を入れた」
 なるほど。だから、最初は遅刻ということに。

「急がなきゃって思いはあったんだけど、まだしばらく亀、見てたんだよね。でも、動かないんだ、亀」
 リクガメは時速350メートルと言われている。一メートル動くのに十秒ほどかかる。本当は動いていたのかもしれない。

「暑いのかな、死んでるのかな、って思ったんだけど、目を覗くと生きてた。びっくりするくらい生きてた」
 鶴は千年、亀は万年。そう簡単には死なない。でも、亀ってデリケートで、生育環境が大事だって聞いたことがある。実際の寿命は40年だとか。アスファルトは、少なくとも良い環境とは言えないだろう。

「私、動くのがいいことなのか、止まっているのがいいことなのか、分からなくなっちゃった」
 先生は、僕らと同世代の少女のように無邪気に、それでいて難しいことを言った。

「それで、鍵はどうなったんですか。家に戻ったんですか」
「うん。ちょっとしたら、家に戻れた。そして、鍵もちゃんと掛かっていた」
「良かった」
「うん、良かった。安心した。だとしても、私は学校に遅刻している」
そこに残された事実より、未来を創る想像力が大切だ。

「僕らは先生が遅刻しても何も言わない。人は、忘れ物をすることだって、遅刻することだってあります」
「ありがとう。でも、ダメだった」
 先生は目を瞑って、首を振った。その姿は、絶望的な事実を伝える医師のようでも、探し物を見つけられない幼児のようでもあった。

「私は、アスファルトの亀だった」
 昼の光に夜の闇の深さは分からないように、僕は先生が何を考え、どうして学校に来なくなったか分からない。でも、一つだけ伝えなくてはいけないことがある。本当に大切なことは陽気に伝えるべきなんだ。

「僕は先生のセオリーが好きです」


「どんなことがあってもさ」
「どんなことがあっても?」

 圭司は話の間に、シャッターを切る。独特の間が心地よい時もあれば、早く次の言葉がほしい時もある。もし、僕が有名人になって「あなたの記憶に残っている父の姿は?」という質問をされたら、『高そうなカメラのファインダーを覗きながら話しかけてくるところ』と答えるだろう。
 カシャカシャっという音と共に圭司は続けた。

「どんなことがあってもさ……、想像力は最強だって唱えろ。想像力の権化であるドラえもんだって、映画の中で叫んでる」
 のび太がドラえもんの助けを求めるように、またそれかという気持ちと、分かっていてもそれが聞きたかったという思いが交差する。

「アドバイスとして、雑じゃない?」
「そうすれば、無人島で台風に見舞われても、平気で帰って来られるのは証明されている」

 日が沈んでからもう数時間経っているはずなのに暑い。長袖シャツを着ている圭司は、涼しげな顔で大きなカメラを構えたり下ろしたりしている。寒がりは夏に強いのだろうか。


「おはよう、みんな元気だった?」
 スーパーで会った一週間後。夏休みの三日前、伊藤先生は前触れもなく朝のホームルームに現れた。先生の表情は明るい。教室は騒然となり、涙ぐんでいる女子もいる。

「せんせぇ、待ってたよー。先生じゃなきゃ嫌ですー」
 冴さんはここぞと模範的な反応を示す。さすがだ。
 ピンク色のヘアゴムで髪を結んだ伊藤先生は、小さく「ありがとう」と言って、生徒一人ひとりと目を合わすようにゆっくりと教室全体を見回した。先生の視線の動きは、時速350メートルよりもずっと遅かったと思う。

 僕は先生が戻ってきたことに驚き、安心し、そして、喜んでいた。
わずかだとしても前進は、帰り道を作る。また、帰る場所の存在が、人を前に進ませてくれる。
「みんな、ただいま。では、夏休みのセオリーについて考えましょう」


 明日から夏休みだ。図書室に寄っていたから下校時刻をとうに過ぎても、靴を履き替えただけで汗が噴き出してくる。僕は四か月間、学校に通った。ちょっとした達成感と、思ったよりも普通に過ごせた満足感に浸る。

 校庭の消えかかった白線を眺めながら、二学期も僕はここにいるのだろうかと思う。カラっカラに乾いたグラウンドを、砂埃が舞っていく。九月は九月の風が吹く。ケセラセラ。

「待ってー」
 ひぐらし時雨を掻き分けて僕に届いた美しい声。なんだか久しぶりな気がする。僕が振り返ると、彩は昇降口から走ってきて、あっという間に僕の前で急停止した。相変わらず速い。

「途中まで、一緒に帰ろ」
 帰り道に指定席はないし、断る理由は毛頭ない。
 
「もちろん、どうぞ」
 彩は鞄を少し大袈裟に振って歩いて、何も話さない。僕らは想像力を持っている。

 大事なことも、大事な人のことも、たくさん考えればいい。
 帰り道は、考える時間。それが僕のセオリーだ。

おしまい


『僕たちは嘘をついている』

④ 本作


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