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ケンタッキークリスマスは永遠の輝き

クリスマスと言えばケンタッキー。この常識が我が家では通じない。

毎年、恋人の母が腕によりをかけた豪勢な料理が出てくる。もちろん嬉しいし、めちゃくちゃ美味しいのだが、私はどうしてもクリスマスにケンタッキーが食べたいのだ。

私は山口県という日本最弱クラスのクソド田舎の中ですら田舎者扱いされる山の麓の町で生まれ育った。

日本昔話に出てくる農村のようなところで、私が小さい時は道路も土だったし街灯もなかった。中学になるまで町にコンビニもなかった。

そんな絵にかいたような限界集落にもテレビだけはあった。クリスマスシーズンには、ケンタッキーのCMが沢山流れる。

そのCMに、幼い私の心は奪われた。クリスマスにケンタッキーを食べることは特別な事で、食べればきっと、あのキラキラした世界の一員になれる。そんな気がした。

ケンタッキークリスマスに憧れた私は、毎年両親に「クリスマスはケンタッキーがいい!」とねだっていたのだが、実現はしなかった。

なぜならケンタッキーなど我が町にはなく、あるのは『肉の村田』と『スーパー山田屋』だったからだ。致し方なし。

そんな幼少期を過ごしたせいか、私の『ケンタッキークリスマス』への執着は並々ならぬものがある。

もしクリスマスにケンタッキーに行って、私の順番でパーティーバレルが売り切れたとしたら、先に買った客に片っ端から「一発やらせてやるから譲ってくれない?」と声をかけるし、断られたら秘孔を突いて殺す。パーティーバレルは私が頂く。メリークリスマス。骨はくれてやるよ。

今、書いていて思ったのだが、なぜキラキラしたおとぎ話のようなクリスマスに憧れた私が、こんな世紀末覇者みたいなことを書いているんだろうか。誰か教えて欲しい。

まあいい。人生とは魂が汚れていく旅だ。人が生きるというのは大変なことなのである。

という訳で今年のクリスマスも、お昼にケンタッキーを買って食べた。秘孔は突いてない。

美味い。これほど美味い食べ物が他にあろうか。果汁グミくらいしか思いつかない。

一口食べただけで、私は全身でクリスマスを感じとてもハッピーになった。

「ケンタッキー美味いけど言うほどか?w」

と思っているそこのお前。

そう、貴様だ。そこに座れ。

まあ俺の話を聞けよ。

シティボーイかモダンガールか知らんが、貴様は老いた鶏を食ったことがあるか?

ないだろう。

我が田舎ではどこの家庭も大体ジジイが鶏を飼っていた。卵をゲットする為だ。そして老いてお役御免となった鶏は肉にして食うのだが、それはまあまずい。

どのくらいまずいかと言うと、自衛隊レンジャー部隊に入った私の幼馴染が、老いた鶏ばっかりさばいて食う訓練を終え、街に出てケンタッキーを食べたら

「うめぇ、、、」

と言ってほろほろ泣いたくらいた。それくらい、老いた鶏はまずい。固くてパサパサしている。その点若鶏さんは柔らかくジューシーだ。

しかしこの若鶏さん、読んで字のごとく若い鶏である。美味いという理由だけで、若い命を散らしている。すべて人間の欲望のためだ。生きる為に飯を食うだけなら老いたまずい鶏で充分なはずだし、なんならその辺の虫でも食ってりゃいいのである。

ケンタッキーの美味しさは若鶏さんの犠牲の上で成り立っている。それを貴様、てめぇ、、、こんにゃろう!!

という話なのだ。そりゃオカマも男に戻るわいね。よいよ、やれんでよ。

ちなみに老いた鶏は固くパサつきまずいのだが、私の身体は老いてなおジューシーだ。それは覚えておけ。召し上がってもよいぞ。

とにかく、ケンタッキーの美味しさは若鶏さんの犠牲の上に成り立っているのである。

ならば私のように一口食べただけでとびきりハッピーになるか、レンジャーのようにほろほろ泣きながら食うのが筋だろう。それが礼儀というものだ。食物連鎖の頂点に立つ我ら人間は、常に感謝の心を持ち、食事と向き合わねばならぬ。

皆様、今年のクリスマスはいかがお過ごしだろうか?ケンタッキーは食べたかな?これから買うのかな?

まさか食べ残したりはしないでしょうね?

もしお残ししたという人がいれば、正直にコメント欄に書きなさい。怒らないから。でも秘孔は突く。そして残りのケンタッキーは私が頂く。メリークリスマス。骨はくれてやるよ。




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