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台湾、自由のために

2017年ネットで人気になった、台湾制作のホラーゲーム『返校 Detention』。その後、映画かとドラマ化もされ、今ネットフリックスでドラマが見れる。より内容を理解しやすいように、『台湾』を軽く紹介したいと思います。

台湾は2020年の大統領選挙は、日本では考えられない75%の投票率でニュースになった。

ネットでちょっと話題になった台湾のIT大臣オードリータンは、内閣に出した資料の性別欄に「なし」と書いて出した。2019年で、アジア初の同性婚ができる国になった。

Freedom House によると、台湾2019年の自由度スコアは100点中の93、自由度の世界ランキングは25位だった。

日本は96点で、12位)

イメージでは「自由な国」だが、30年ぐらい前まではそうじゃなかった。自分の母の世代では、自由のために戦っていた人がたくさんいた。

中華民国(台湾)では、中国国民党の蔣介石政権下の1949年(民国38年)5月19日に台湾省戒厳令(中国語版)が台湾省に布告された。その後、蔣経国総統が五一九緑色運動の高まりを受けて1987年7月15日に解除するまで、38年間もの長期に亘って施行され続けた。これは20世紀を通じて世界最長の戒厳である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

台湾では戒厳令が出された時期を「白色テロ」とも呼ぶ。

では、なんで当時の「中華民国政府」はこんなに、厳しい政権になったか、台湾の歴史から見たら分かりやすいと思う。

意外と知られていない、台湾史

大きく下のように分けられる、日本と比べると、すごく短く感じる(笑)

私がまだ学生の時台湾史の授業は一年生の前期のみだった、後期から三年に上がるまでは中国史で、三年生で世界史の授業をやっていた。

台湾人なのに、台湾の歴史の授業はただの半年だけ、中国史が倍以上の一年半も勉強させられた。歴史だけではなく、地理もそうだった、中国に行ったことないのに、地名、山や川などいろいろ暗記させられた。

でも今は変わった、長くなりそうなので、今回は割愛する。

ざーと台湾の歴史を紹介する。

❶先史時代

台湾は旧石器時代晩期から人が住まれていると、遺跡が発掘された。

オランダ人達が来るまで、原住民たちは文字がなかったため、その以前の歴史は不明点が多かった。

❷オランダ統治時代

オランド人は台湾に来たことがあった、日本に来た理由と同じ「布教する」ためだった、オランド人だけではなく、スペイン人も来た、でもスペインの目標は日本と中国だったから、台湾にそんな布教する力を入れなかった。

オランダの宣教師はどれぐらい力を入れたかいうと、原住民達に聖書を伝えるために「文字」を教えないといけない、原住民語をローマ字で表示させて、読み書きを教え始めた。

原住民たちの「歴史」もこの時代から文字として残されるようになった、今になって、カトリック教を信じる原住民もたくさんいる、画像のようなエストニックな教会もたくさん残っている。

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❸明鄭統治時代

中国が清の時代に入って、明の時代の皇族の遺族の鄭成功が台湾を「反清復明」の基地として、やってきた、もともと台湾にいたオランダ人達も追い出された。

これは台湾の初の漢民族の政権だった、目標は中国を取り戻すだったが、たくさんの移民が台南に来て、台湾で住み始めたから、今みんなが知っている「台湾」の始まりはそこからだったとも言われている。

❹清朝統治時代

 -前期

今のところまで、台湾を一番長く「統治」したのは清だったが、清にとって台湾に来たのはあくまでも明の遺族を討伐しようとしたから、ちゃんとした管理はなかったあ。

台湾は以前のように、アジアに進出しようとしたヨーロッパ諸国の休憩所として、たくさんの国の人が行ったり来たりしていた、貿易も活発した。中国の沿海のかたも台湾に移住する人が増えた、なぜか言うと、清はあまりちゃんと台湾を管理していないから、すごく自由なところだった。

清はみんながどんどん台湾に行かないようにするため、女性の渡航を禁止していた。そのせいで、台湾に来た漢民族と平地に住んでいた原住民達のハーフが多くなって、文化もどんどん融合して、今は平地の原住民の文化はほとんど消えていた。同化されたくない原住民達もどんどん東の方に移動した。

 -後期

台湾は地理的にいい場所だったのでたくさんの列強が台湾に興味を持つようになって、清も自己防衛の面で台湾をちゃんと管理しないといけないと思い始めて、福建省から切り離して、渡航禁止令も取り消し「台湾省」を設置、本格的な管理を始めた。

台湾を管理するのは難しかったのは、今まで、実際台湾を管理しているのは、地方勢力だった。長年台湾に住んでいたから、清政府が送り込んだ軍隊より台湾の気候と地形に慣れていたため、制圧するのが大変だった。

❺日本統治時代

 -前期

日清戦争が終わって、清が台湾を日本に渡した。地方勢力はまた違う人に統治されるの嫌がっていた、清政府に何回もその約束を取り消してもらおうとした。もちろん、聞いてくれなかったので、台湾にいた一部の人は清から独立しようとして、1895年で「台湾民主国」を作って、《台湾独立宣言》を出した。

もともと北では清が管理していたから、偉い人たちは日本人が来る前に中国に逃げたため、残された兵士たちが強盗化し、一般市民達がすごく悩んでいた、台北城はほぼ無政府状態だった。当時、台北城にいた市民たちが大稻埕(だいとうてい)にいた外国人に頼んで、日本に電報を送って「早く来てほしい」と頼んだ。

なので、北の方は無事に日本が管理できて、そこから少しずつ南進んで、台南で作られた「台湾民主国」はただの三ヶ月で解散させられた。

台湾民主国が解散したあと、日本は台湾全体を傘下に収めることができた。各地で漢民族や原住民からの反日運動や抗争はあってが、1930年霧社事件が終わってから、大規模な抗争はなくなった。

当時の状況は2013年で映画化もされたので、興味がある方はぜひ見てみてください。セデック族を中心、日本時代での原住民達との関係をよく描かれた。残酷なシーンが多くて、賛否両論だったが、自分はいい映画だったと思う。

 -中期

抗争ばかりじゃなくて、平和なとこともあった。知らない方が多いかもしれないが、台湾のチーム甲子園に出場したことがあった。これも上の映画と同じ監督で、映画化された、本当に見てて感動する。

台湾でよく知られているダムを作った人、八田與一さんも映画の中に出てきた。

野球だけではなく、「日本美術展覧会」に出展できた台湾人もいたぐらい、美術が発展した。その第一人は陳澄波さん、彼が書いた「嘉義の町はづれ」は映画のKANOが背景と同じの嘉義だった。

台湾のルネサンス期とも言える、いろんな文化的活動が盛んでいた。

当時の台湾では共学のところもあるが、やはり一番資源が集めるところは「日本人のみ」の学校だった。留日した台湾人が台湾に戻って、日本人と台湾人の間の差別をなくし、平等を求める人も出てきら、台湾でいろんな社会政治運動が起きっていた。ほとんどのお願いは撤去されたが、1935年から1939年の議員選挙で、台湾人が選挙権を得ることができた。

 -後期

1936年、日本と中国の関係が悪化したせいで、台湾を南進の基地として「工業化」と「皇民化運動」を進めた。台湾を管理する人も文官から武官に変わり、文化的な活動もこの時期でほとんど止まった。でも工業化がどんどん進んで、1939年で台湾の工業生産値が初めて農業を超えた。

第二次世界大戦の時、アメリカ軍も台湾の場所は戦略上で重要と思っているから、1944年で空襲を始めた。工業生産が激減して、軍事的制圧も強まって、情報の封鎖などで、台湾人の自由がどんどん圧迫された。

❻中華民国時代

 -初期

日本時代中期で文化的な活動が盛んでいたため、後期の強制的な管理に耐えられなかった台湾人は、やっと日本人と今までの「上下関係」から逃れると期待して、共産党との内戦で敗戦した「中華民国」を歓迎した。

でも、また新しい悪夢が来ると誰も思わなかった。

ボロボロになって逃げてきた国民政府に対して、台湾人のみんなは最初優しく接していたが、かなりのカルチャーショックを受けていた。台湾人が日本教育を受けて、文化的と工業的に発展していた時、中華民国はずっと戦争に追われていて、発展所ではなかった。

中華民国は発展していた台湾をどう管理するのがわからなくて、そもそも台湾を基地にして中国を取り戻そうとしていたから、台湾国内で武器を持っている軍人が一般市民から資源を奪ったりしていた。

台湾にもともと居た人たちが「本省人」と呼ばれ、国民政府と一緒に来た人たちが「外省人」、文化の違いでお互いの衝突がどんどん激しくなった。

 -白色テロ

軍人が悪さをたくさんしたせいで、台湾国内で反発がどんどん大きくなって、それが爆発したのは「二・二八事件」。

劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では大陸の国民党政府に密かに援軍を要請していた。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。

蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、3月8日に大陸から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

先ほど紹介した日展に出展した陳澄波さんも、民衆のために政府に反抗した。結果、軍人に掴まれて市中引き回しのうえで嘉義駅前で銃殺された。 

政府の無差別の殺人は台湾各地で行われていた、二二八の被害者の遺族たちは、未だに国民党を許すことができない。

政府が台湾人をより高圧に制圧しようとして、小説の《一九八四》のような管理が始めた。1949年5月19日に改めて発令された戒厳令が「白色テロ」の幕を開けた、冒頭で言った『返校 Detention』の時代背景だった。

「台湾人」であることを忘れさせるため、方言も全部禁止された。伝統文化の布袋劇(ほていげき)も禁止されらた。学校内でも生徒に監視員として頼んで、お互い監視させる、母の学生時代では学校内で台湾語を使ったら、一元の罰金され、犬の札をかけらる。もっと重大な違法事件だったら、『返校 Detention』のように軍隊が学校内に入って、先生や生徒をそのまま連れ出すのも実際にあったことだった。

「台湾人」であることを忘れさせるため、学校で台湾史じゃなくて、中国史をメインに教えていた。私が学生の時で、台湾史と地理は一年生の前期のみ、一年の後期から三年に上がるまでは中国史と地理を教えられてきた。このような教育はやっと、2019年で変えられた。

 -美麗島事件

こんな高圧の政権のもとで、「自由」を戻る台湾人の心を殺すことができなかった、『返校 Detention』のように党が与えた知識以外のを知識を得るのは人としての自由と思って、違法な読書会は各地にあった。

1979年12月、世界人権デーで「美麗島」という高雄にある雑誌出版社がデモを起こした、二二八事件の後に一番大きな政府と民間の衝突だったが、これが台湾の本土化と民主化の引き金になった。

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当時のデモで逮捕された人たちが今の民進党の初期メンバーとなり、出版社側の弁護士は元大統領の陳水扁だった。

 -三月学運

世界で一番長かった戒厳令がやっと1987年撤収された。文化的な活動がまた活発し始めたが、台湾の文化は白色テロで消えそうになって、今では台湾政府が頑張って守ろうと力を入れている。

せっかく自由になったから、みんなはこのチャンスを掴んで、政治への関心と参加も活発した。1990年の三3月16日で学生と社運の人が何人か自由広場に集めた、17日の夕方までは2百名ぐらいまで増えた。台湾大学の民主派の学者も同日でストライキをして、19日からの授業する場所は自由広場に変えると宣告した。メディアの報道の影響で、その日は2千人を突破した。

18日、自由広場で数千人の学生が集めた、もともと何人かの静坐運動も全国規模な学運まで広まった。暴動にならないように「自由、隔離、平和、秩序」の四大原則のもとで、デモを続けた。その日で、四大要求も提示した。国民大会解散、臨時条款廃止、国是会議開催、政治経済改革時間表(タイムテーブル)提出。

19日、学運団体を学生自治会は10時から大統領が要求を受け入れるまで絶食すると要求した。夜の11時の会議で、野百合を今回のデモ象徴と発表し、広告担当の生徒たちが〈野百合的の春〉のチラシを作って、配り始めた。

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20日で広場は5千人の生徒が集まった、政府は当時21日の大統領選だったので、学運現場にいく暇がなかったが、大統領は声明で国是会議開催、政治経済改革時間表提出を受け入れると答えた。軍事権を握る国防部参謀長も生徒の愛国心の称賛したが、早くデモを終わらせてほしいとも言った。国防部参謀長の発言で不穏の空気がと漂い始めたから、いろんな校長も生徒に学校に戻ろうと呼びかけ始めた。

21日で大統領が当選できた、その日の午後3時で自由広場に行って、生徒たちに直接に対談した。会話ができて、共通認識もできたから、22日で学生運動は無事に終わった。

当時の大統領は日本でも有名な李登輝さんだった、李登輝さんは生徒側と同じな考えだったが、大統領になったばかりの「本土人」の李登輝さんは、「外省人」がたくさんいる国民党の中では、まだ力が弱かったため、党の力を自由に動けるまで時間が必要だった。

李登輝さんについて、詳しいことを知りたい方は、このnoteへそうぞ〜

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今の台湾

学生運動だけではなく、社会運動、政治運動などが活発し、その裏で加勢してくれた李登輝さんのコツコツの努力のおかげで、台湾の民主化がどんどん進み始めた。2000年での大統領選挙で、投票率は今まで最高の82.69%だった、民進党を代表にした陳水扁が39%の票で当選した。台湾初の政党交代ができて、中国国民党の55年も及んだの政権はやっと台湾人に渡すことができた。

自由のための戦ってきた台湾人にとって、
初めての勝利だった。

その後、色んな自由を求めるために色んなデモや社会活動が続いている。

一番有名だったのは2014年の「ひまわり学運」、学生たちが中国との貿易条約の透明性が足りなかったと、立法院を占領してデモを起こした。この運動も香港人に勇気付けをして、その後香港の学生が起こしたデモの「黄色」の象徴の由来とも言われている。

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もともと無理やり同じ部族として分類された原住民が、自分と他の部族の違いを示して、記憶なのかでは母の時代では9族だったが、今中央政府が認定したのは13族もある。

もともと差別を受けられてきたLGBTも、学校で性別の平等教育があるため、差別は少しづつ消えている、同性婚も2019年からできるようになった。

香港でのデモで、ある人がこう言った。


自由は空気みたいなようで、
普段は感じないが、
急に無くなると、
人は生きていけなくなる。


『返校 Detention』の背景を紹介したいだけだったのに、長文になってしまった(笑)

自分は遊んだことがないが、色んな実況を見ていた、その中でも一番面白かったのは声優の花江夏樹さんのものだった。ちゃんとセリフを読み上げてくれていたから、映画を見るような感じだった。

歴史の話は、やはり多少見解の違いはあるが、もし間違いがあったら、ぜひコメント欄で教えてください!

最後まで読んでいただいて、
ありがとうございます。


自由のために捧げる。


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