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香港映画『Blue Island』は、深い思考と詩情が響きあう驚異の哲学的歴史映画だ。

 「歴史とは過去との間の尽きることを知らぬ対話」という名言を残したのは、イギリス人歴史学者エドワード・H・カー(1892年~1982年)ですが、香港の民主化運動の挫折を描いた映画『Blue Island(憂鬱之島)』は、驚くべき密度と熱量で、「過去との対話」を映像化しています。一応はドキュメンタリー映画というジャンルに入るのでしょうが、その枠をはるかに超えた実験映画であり、チャン・ジーウン監督の深い思考に導かれた「哲学的な歴史映画」という一面ももっていると感じました。

しぶしぶと渋谷の映画館へ

私はドキュメンタリー映画の愛好者でもなければ、香港の民主化運動に深く共感している人間というわけでもありませんから、本来なら、この映画の存在さえ知らないままだったはずです。

友人関係の義理によって郵送されて来た1枚のチケットを無駄にするのももったいないという消極的な理由で、東京・渋谷の映画館「ユーロスペース」に向かったのでした。

民主化運動に挫折した若者たちの憂鬱な日々を描き、中国共産党および香港当局の暴力性を告発する映画なのだろう──。そんなふうに高をくくって、まったく予習することもなく、映画を見始めたので、若い男女の夜の遠泳や文化大革命の場面が続いて、「何だこりゃ?」の連続でした。

始まって15分か20分くらい経ったあたりで、予備知識のない私にも、映画の構造というか、仕掛けが見えてきました。


多重構造の手の込んだ映画

『Blue Island』は、近年の香港の民主化運動の盛り上がりと破綻を主筋とする一方で、この60年のあいだの香港の歴史を、3人の政治的な人物(そろって無名の人)の再現ドラマによって描いているのです。この作品が特異であるのは、3人の再現ドラマを演じる俳優が、リアルタイムで民主化運動にかかわる若者たちであることです。

〇再現ドラマになっているひとりの老人は、文化大革命時代の中国を嫌悪し、恋人(妻?)とともに泳いで香港に渡り、住み着いた人。

〇もうひとりの老人は、香港がイギリスの植民地だった1967年、中国への復帰運動にかかわり、逮捕された経験のある実業家。

〇50代とおぼしき庶民派弁護士(活動家の弁護団の一員)は、学生時代、天安門事件の支援のため、北京に駆けつけたものの、鎮圧に巻き込まれ危うく死にかけた。その後、民主化運動とは、一定の距離を置いて暮らしており、それを後ろめたく感じている。

現在の活動家でもある素人俳優は、3人の政治的人物と対話を重ねつつ、若き日の彼らを演じるわけです。
チャン・ジーウン監督らしき声が、素人男優のひとりに向かって、
「君のこれまでの経験を思い出しながら、役を作り上げるように」という内容の、考えようによっては、非情に残酷な演技指導をしている場面も映し出されています。

そう言われた男優(活動家)の、反応の言葉はスクリーンからは聞こえてこないのですが、何とも言えない陰影のある表情を浮かべています。彼はその後、逮捕され、裁判で有罪をくい、刑務所に収監されることになったことが映画の終わり近くで明かされます。

『Blue Island』の再現ドラマのパートの、過剰ともいえるほどの緊張感は、現在進行形の政治事件を背景とする本物の感情です。この一点だけを見ても、恐るべき映画であるというしかありません。

イギリスの歴史学者E・H・カーは、歴史を学ぶ行為を「過去との対話」と言いましたが、『Blue Island』は、みごとな戦略によって、「過去との対話」を立体的に映像化しようとしています。

過去の事件と未来の目的

カー教授の言葉は、1961年の英国ケンブリッジ大学での連続講演『歴史とは何か』で語られたものであるそうです。講演の記録は同じタイトルで書籍化され、日本語版は岩波新書のロングセラーとして知られています。

カー教授の言葉の意味するところは、あらゆる過去の出来事は、それぞれの時代における「現代人」の関心事や問題意識から絶えず再評価され、書き換えられるのだから、絶対的な歴史的事実というものがあるわけではないということのようです。

カー教授はこの連続講演の最終回で、自らの言葉をさらに展開して、こう述べています。最近、新訳が出ているようですが、手元にないので、岩波新書の旧訳で失礼します。

「歴史とは過去と現在との間の対話であると前の講演で申し上げたのですが、むしろ、歴史とは過去の諸事件と次第に現われて来る未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきであったかと思います」(岩波新書『歴史とは何か』P184、「過去と現代の対話」のほうはP40)

『Blue Island』という映画の文脈でいえば、再現ドラマになっている3人の「未来の目的」は、「共産主義からの自由」「植民地支配を脱し中国に復帰すること」「中国と香港の民主化」とそれぞれに異なっています。近年の民主化運動の路上デモでは、「香港の独立こそ唯一の道」とさえ叫ばれています。

この60年間の香港の、さまざまな理想が描かれ、活動家でもある素人俳優の演技によって現代と結びつき、記憶と夢が交差しながら、未来につながる時間が映し出されています。なんとも重層的で、スケールの大きな表現空間です。

アート映画としての一面

「香港の民主化運動」という看板からは予想もしていなかったのですが、この作品は実に美しい映画です。風景は息を吞むほどの映像美ですし、プロの俳優はひとりもいないはずなのに、登場人物のビジュアルはそろって性格俳優めいた魅力を発散させています。

なかでも、若いころ中国本土から泳いで香港に移住した老人のたたずまいは、みごとな「絵」を作り出しています。この老人は現在も、毎日、海水浴場でもない、市街地に近い港の海で悠々と泳いでいます。

香港の高層ビル街を遠望しつつ海に飛び込む場面。
ジョギングの人たちが行きかう道から、夜明けの海に飛び込む場面。
波がうねる、嵐の海を泳ぎ続ける場面。

老人が泳ぐことの意味は言葉ではいっさい説明されませんが、祈りにも似た深い感情が伝わってきます。

天安門事件の犠牲者を悼む集会でともされるロウソクの火の数が、年とともに少なくなっていくのも印象的です。庶民派弁護士の感情が、ロウソクの火のゆらぎと重なって見えます。

映画の終盤、民主化運動が破綻に向かう時間のなかで、夜の無人の公園、すさんだ気配の道路の路肩、歩道の敷石とおぼしき灰色の正方形、そうした何でもない風景が映し出されています。見ていて胸が塞がれそうになりました。

私は20年くらい新聞記者として勤務したあと、古代史や戦国史をテーマとするたわいもない内容の本の執筆や編集をしているので、強引にこじつければ、「歴史」の表現にかかわる同業者と言えなくもないのですが、映画についてはまったくの素人です。

だから、この野心的な作品が映画として成功しているのかどうかについて論評する資格はないのですが、見る人を新たな思考に誘うことは間違いないと思います。本であれ、映画であれ、それは優れた作品の条件のひとつであるはずです。


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