100日哲学チャレンジ☆15日目

 人間嫌いの君へ

 なぜ休みの日まで、人間と付き合わなければならないのだろう。
 僕は以前から、自分を、自分であるだけで愛してくれる人が現れたら、やりたいことがあった。
 人間と付き合わなくて良い日を作ることである。
 人間は、いつも僕に評価を下し、僕の表情を伺い、僕の言動を気にして、様々な働きかけをしてくる。それが僕にとって、非常に鬱陶しい。
 誰にも評価されず、ありのままの自分でいたい。
 しかし、先に言った「自分を、自分であるだけで愛してくれる人」が本当にできたものの、その人の前では、「その人に愛される自分」であろうと必死に努力する自分に気づいた。

 僕は、きっと頭がおかしいのか、それとも自分が頭が良いと勘違いしている思い上がりなのだろう。なぜこんなにも必死に、綺麗な言葉で言えば哲学、あるいは人生の時間の浪費をしているのだろう。

 昨日考えたのは。「自分の人生を生きている感覚」を取り戻そうとしているから。逆に言えば今は、自分の周囲の人たちの期待や助言に従って生きていくしかない自分への無力感から抜け出したいと思っているからだ。しかし、この「自分の人生を生きている感覚」と呼ばれるものは、因果関係的に捉えて、「これができれば取り戻せる」というものではないように思える。  

 事実、学生時代には、「仕事を得て、自分のお金で自由に買い物したり旅行したりできればよいだろう」と考えていたのだが。実際に自由に使えるお金が増えてみると、何を買うのか、何に投資するのかに、自分の意志や生活スタイルが必要になってくることに気づいた。結局、僕の中に意志がないが故に、買い物すら難しい。

 自由が欲しいと感じていた学生時代には、逆に考えれば、自由を得ることができさえすれば、自分の抱える課題は全て解決されると、盲目的に思っていただけなのだろう。いずれにしても、僕には相談できる人も、共に実行に移してくれる人も周りにいないのだ。とにかく自分で動いて、自由の使い道を探していくしかないのだろう。

 どこまでも広がる自由の荒野を見て、「ああ、何もない」と悲しむのか、「これからこの場所をどうしていくのか、自由にできることは素晴らしい」と喜ぶのか。どんな課題も、課題の認知の仕方に、その後の解決までの過程と解決の形は帰結される訳だ。だとしたら僕は、既にとんでもなく不利な状況に立たされていると思う。

 だから僕は、自分に勇気を奮い立たせてくれる友人を、大切にしようとした。自分の利益の為に、大切にする友人を選ぶのは汚いと思う方もいるだろうが、僕は綺麗に生きることに価値を感じないので、一向にそう思って頂いて構わない。自分に価値ある評価や助言をしてくれる人よりも、「大丈夫だよ」と傍で唯言ってくれる人を僕は好む。孫氏や老子の思想にすら反するかもしれないが(諫言をちゃんと聞け云々)、それはそれでちゃんと聞く。

 教育に携わる身として、よく思うのは。どれだけ「ああしろこうしろ」と指図せずに、相手との信頼関係や対話によって共に考えることができたかが、相手の主体性を育て、創造性を刺激するかに関わっているかということだ。怒鳴ったり叱ったり、間違いを指摘するだけでは、萎縮を招くばかりだ(僕のように、萎縮しきってからでは、遅いのだ)。

 新しい、形のないものを作り出していく過程は、非常に苦しい。ましてや、価値を感じない人たちや、「もっとこっちの方が良い」と推し進めてくる人たちが周りにいれば、やりづらくてしょうがない。ましてやそうした人たちが、僕を愛してくれたり、逆に僕が愛する人たちであれば、さらに厄介だ。善意と愛によって、徹底的に僕の個性を潰しにかかってくる。そして笑顔で、「あなたはまだ若いから、どうしたらいいのか分からないんだね。教えてあげよう」と言う。或いは、「やりたいことがあるのは分かるけど、まあ10年キャリアを積んでからだね」と言う。別に彼らを、批判するわけじゃない。唯、彼らの言動とは別の次元に、自分の創造性を育てられる道場がなければ、自分の人生のコンパスを持たないことにずっと苛まれるだけの話だ。別の次元というのは、自分が高次だとかそういう話がしたいのではなく、誰の言動であったとしてもメタ認知し、取り入れる価値を選ぶことができる心理的な空間をもつことが重要だ、ということだ。

 自分が今までの人生から受けてきた教訓や、身につけた性質すらもメタ認知して、それをブロックのように組み合わせながら、改めてどんな形に組み上げるのかを精査する場所。一筋の助言や価値による喧騒も暴虐も及ばない、静かな宮殿。僕は今は、自由の荒野にそれを打ち建てるべく、人の中に自分を見出し、自分の中に人を見出し、建材を集めているのだと思う。

 岡本太郎は、「人の中に見出す自分が、愛」と言っていた。好き勝手に、考えてみた。自分と似た部分や、意気の合う部分って、親しみが湧く。偉人とか著名人とか、自分とは遠い存在の人たちの、若い頃の失敗談や、性格の欠点等を紹介するテレビ番組なんかもあるけれども、「ああ、この人も人間なんだな」と思えることは、一種の安心感と共に親しみを生み出す。
 一方、自分と違う部分については。僕はたまに恋人と電話していても、イライラしてしまうことがある。早く電話を切って、自分のことをしたいと思ってしまう自分に、酷く罪悪感を感じることがある。相手は求めてくれているのだから、応えたいとも思う。「どんな自分でも愛してくれる」と何度も言ってくれたのに、そうしたイライラした自分を隠そうとしていることにも、やりきれない気持ちになる。何だか複雑に考えてしまう癖が自分にはあるようで、その考えが、ひょっとしたら相手にも、自分の声音や言動から分かってしまうのではないかと、ヒヤヒヤする。

 人付き合いというものは、いつも綱渡りだ。
 一歩踏み外しそうになれば、バランスをとるべくフォローを入れる。
 踏み外したい思いと、バランスを取りたい思いが、いつも天秤にかけられ、苦しみながらも、また一歩を踏み出さなくてはならない。
 「そんなもの、全て気のせいだ」と言われても、何の解決策にもならなかった。相談室の外に出れば、綱渡りは続くから。
 だがいつか、心の中に確固たる宮殿を築き、バランス芸に頼る必要のない日が来ないかと、僕は夢見ている。

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