100日哲学チャレンジ☆2日目
こんばんは。カマイタチ兄です。
突然ですが、僕の趣味を、書き出してみました。
〇 ドラム演奏
〇 小説・エッセイ執筆
〇 ゲーム・動画シナリオ等制作
〇 ランニング・筋トレ
〇 街歩き・実地調査・おでかけ☆
〇 映画やアニメ、漫画をみる
〇 カフェで書き物をする
〇 友人と社会活動の打ち合わせをしたり、ご飯を食べに行ったり
さて、僕の仕事は何でしょうか?
僕は、人から「先生」と呼ばれる仕事をしています。教育関係者な訳です。さて、趣味と見比べて、「確かにそれっぽい」と皆さんは思うでしょうか。今回は、趣味と仕事のお話です。
第1回 「私という社会」より
「ディスタンクシオン」のテーマは、「趣味とは何か、文化とは何か」でした。「自分が選び取ったはずの趣味というものが、実は社会構造によってはっきりと傾向づけられていること」を明らかにした本です。
なんか確かに岸先生が言うように、僕の趣味も書き出してみるといかにも「それっぽい内容」になってきました。創作系が多くて、それに付随して調べ物が多くなって。土日は特に、創作中心に生活が回ります。「新しいネタや発想が欲しいから美術館に行く」とか、「あの映画のあの場面が気になるからこの映画を見る」といった具合です。
でも、それは母親が長年そうしていて、それに合わせて僕も生活してきた結果である気がします。因みに母親はアマチュア小説家で、仕事が終わって家に帰ると、ひたすら資格の勉強か小説のネタ探しをしています。
創作に対して、「それは価値ある行動だ!」と思うことができるのは、母親の普段の生活様式、態度から自然に身に着けたもの、そして言葉ややりとりの中で学んだものがあるからでしょう。これが習慣(ハビトゥス)ってやつかあ。なんか、凄く縛られているような感じがします。
自分自身がオリジナルなものである、つまり母親とは違う独自性あるものなんだと主張しようとするほど。僕は創作に没頭し、結局受け継いだものに基づいて行動するわけです。
では、敢えて反抗し、創作以外の分野で自分自身を「表現」しようとしても。生まれてから今までに身に着けてきたもの(=文化資本)を使わないから自分にとって不利ですし、結局「創作への反抗」という形をとれば価値基準は創作にあります。そして、結局諦めて創作活動を続けた結果、読書や芸術鑑賞等の時間が増えていき、勉強もそれなりに苦でなくなったので、今の仕事にありつけたようです。
以上を考えあわせますと。僕たちは文化資本というやつに、凄く縛られていることになります。それでも、自分自身のオリジナリティを主張しようとするならば、「文化資本を上手く利用して、自由に生きる」という、パラドクスにも見えることを成せるかどうかになってしまう訳です(笑)。
しかし、ハビトゥスの形成に深く関わっているのは、やはり家族や生まれ育った環境(学校教育etc.)ということになるのでしょう。僕は今、「自分の意志で自由に生きていたい」と言う半ひきこもりの若者たちと一緒に、町おこしの事業を行っています。
次回は、彼らへの聞き取りの内容を引き合いに出しつつ、お話していきたいと思います。
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