100日哲学チャレンジ☆6日目

  こんばんは。この前まで弟の私服の趣味と自分の趣味は違うと主張していたのに、気が付いたら今日同じような服装をしていた兄です。

 自分に個性があるのか、ということに小学生の頃から悩んでいました。例えば、僕の現在の家族や友人の趣味を見ると。

 母は小説を書くことができるし、介護関連の資格をとる為に日夜勉強している。「ワンピース」大好き。

 父はゲームプログラミングに、コンピュータが家庭に普及し始めた頃から取り組んでいて、自らシナリオを書き、音楽を作り、プログラムして作品を作っている。

 弟は、イギリスのドラマ、歴史、文化に興味があり、「ドクター・フー」のグッズを集めていたりする。

 僕の彼女は、「セカイノオワリ」と「嵐」が好き。

 じゃあ僕はと言われると、趣味はドラムがあるけれど。それは、ドラムが、与えられたリズム譜を、正確にこなすことを求められるから、という特性で選びました。弦楽器や管楽器のように、テンポをずらしたり合わせたり、装飾音を入れたり入れなかったりする、自由度が高そうなものは、僕は手が出しにくいのです。自由であることに、戸惑ってしまう。

 そこで僕は、自分なりの哲学、つまり「ものの考え方のルーツ」を作りたいと思いました。遠回りかもしれませんが、それが見つかれば、そこから自分自身をしっかりと根を張った状態で広げられると思いました。ゆえに、倫理学に立ち戻って、人間とは何かについてまずは考えたい、と思ったわけです。ちゃんと「哲学とは何か」ということを知りたい方は、こちらの文章等をお読みいただければと思います↓↓↓↓↓

 「自分なりの哲学」という言葉を用いた時には、例えば「~先生の人生哲学」とか、「私なりの~とは」というものを定義する営みと思うかもしれない。

 だが、それは「他の人と自分とは違うもの=個性」という考え方に基づき、人の興味や評価を得る為に、「哲学」という言葉を使っているように思えます。一方、本来の哲学とは、苫野先生が仰るように、物事の本質を捉えようとする営みのことです。「趣味とは何か」「個性とは何か」ということを考えていくわけですが、「それって人それぞれじゃん」と言われたら、そこで議論は終わってしまいます。お互いの使う言葉や、考え方の筋道、ルーツが何処にあるのかを探っていく中で、互いを理解し、尊重しようとする。それが哲学における、対話の意味だと思います。

 が。正直、これがきれいごとであるのは間違いありません。ずっと一緒に住んでいる家族ですらも、どれだけ語り合っても分かり合えない部分はたくさんあります。いがみあっていたかと思えば、気づけばいつも通り笑って話していたりする。真面目に議論議論といっても、実際にはそれが役に立たなくては、仕方がないと思われるでしょう。「男はつらいよ」とか、「名探偵ポワロ」なんか見ていてもそうで、登場した人物は互いに言いたい放題。自分の考えや個性、キャラを強く発揮して、さらに年齢・勤続年数やら職種やら押し付けた方が、強いのが世の中でしょう。

 はい。だいぶ愚痴になってきたのでやめますが、正直言って、まだ哲学を学んだことで、生活の中で役に立つのかと、僕も思うところは色々とあります。

 しかし、哲学で考えた上で、それを社会学のやり方で実践していくことができれば、僕は好きな哲学をやれるし、社会の役にも立つんじゃないかと、勝手に考えています。

 第二回でも取り上げた、ひきこもりの若者たちは、

「自分たちには自由がない、不自由な人間だ」とか、

「自分の人生の主役は自分だという感覚を取り戻したい」とか、

「親の言うことばっかり聞いて今まで頑張ってきたのに、今のような自分の状況(ひきこもり)になってしまった。今度は自分で物事を決めたい」

 とか言っていました。彼らの言い分は、理解できなくもない。だけど、自分の人生の責任を、人に押し付けようとしている態度があちらこちらで見えてました。僕はこれを、「間違っている」等の言葉で批判するのではなく。「どうしてそう思うのか」を聞き取っていくことで、どうしてひきこもりが生まれるのかについて、考えてみようと思っています。まだ調査中なので、また進展があり次第、書くと思います。

 僕の趣味は、とりあえず今のところ、哲学や社会学を学ぶことにしておきます。また新たな面白いものに出会ったとき、書きます。

 次回は、きちんと「ディスタンクシオン」に戻ると思いますので(たぶん)、お楽しみに☆

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