会話において何をしているか。

 会話においては、対話をしている場合と、お約束をしている場合と二種類ある。例えば、

あなたにとって仕事とは何ですか?

このような問いは本当によくあるのだけれど、この問いに答えるとすると、例えば

わたしにとって仕事とは人生そのものです。

とか、

わたしにとって仕事とは自己表現の場です。

とか、そういうちょっと格好のつくことを言わなければならない。
ここでちゃんと「わたしにとって」という前置きをつけることも大事になってくるのかも。

 つまり「あなたにとって仕事とは?」という質問には、
「わたしにとって仕事とは ○○(格好いいこと)です。」という返答をすることが、あらかじめ想定されている。

 もちろんこのような返答をしなくてもよい。例えば、わたしにとって仕事とは、「毎日朝8時に家を出発してやることです。」であったり、わたしにとって仕事とは、「顧客部の事務です。」と答えることもできる。ただ、おそらくこの質問をしてきた相手にとってはそれは満足のいくものではないかもしれない。なぜなら質問にはすでに答えが用意されているから。

 答えが用意されているというのは少々乱暴かもしれない。答えが用意されているのではない、答え方が用意されている。別の言い方をすれば、答え方が想定されている。

「あなたにとって仕事とは?」
の問いに対しては、その人の人生観であったり今までの経験のようなものがギュッとつまった、ちょっと格好がつく言葉で返答をする。そういうことが質問者と返答者の間に暗黙の了解として漂っている。

 最近、このことをインタビューや、専門の書籍においても感じる。なぜわざわざこの二つを挙げたか。それはこれらにおいては本来は「対話」が求められているはずだからだ。そう、上で述べてきた会話のやり取りはある意味で「お約束」的な言葉のキャッチボールである。もちろんこれらが大事なときもある。一言で自分の印象を残すためにはこのようなやり取りが有効だし、その会話自体をエンターテイメントとして楽しむこともできる。

 しかし相手の本当のところを知る、そしてそれをより深く理解するためには「対話」のコミュニケーションがなければならない。それは相手の話を聞いて自分の中に落とし込んで考えてみる、そこから質問が湧き出てくる、そして相手はそれに応えることによってさらに次の質問が起こる。これが「対話」である。

 このようなコミュニケーションは多くはないけれども、たのしいものだ。そして必要な時にはそういうコミュニケーションを取らなければならない。相手のことを知るということは、そのような「対話」なくしてはできないだろう。すでに用意されている言葉のキャッチボール以上におもしろい対話がそこにはあるはずだ。

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