本が読めるまで(9)三島由紀夫「海と夕焼」

 いよいよ年の瀬ですね。年末はなぜだかいつも忙しくなります。これ、なぜなんでしょう。特に仕事とかそのほかのことで特別スケジュールが変わったというわけではないのに、でも忙しい。一年のおわり、一年がおわるというのはやはり大きなことのようです。

 今年は三島由紀夫の没後50年です。各書店では三島の特集を組んだり、特別展示をおこなったりしていました。私のよく利用する書店では売り場の一角が三島特集になっていて、本人の写真数枚とその作品、また三島に関する評論がいくつか並べられています。おお、すごいな、としばらくその場で立ち止まってしまいました。

 三島由紀夫という人物はその生涯が先行して、本当の姿が見えなくなっていると感じています。本当の姿なんて、それは何? とも言えますが、でもこの作家の書いたものを読んでみると、自分が抱いていたイメージが一片的だったんだなと気づかされます。

 筑摩書房が出している文庫「ちくま日本文学」の作品の選出はなかなか興味深いですね。「ちくま日本文学」は主に近代の作家の作品を、一冊の文庫として掌におさめられるように、作品を選出しています。作家ごとに表紙も変わっていて、表紙や所収作品名を見るだけでも興味深いのではないでしょうか。三島由紀夫といえば「仮面の告白」かなという感じですが、「ちくま日本文学」の文庫の中には含まれていません。「金閣寺」も含まれていないです。所収作品は「海と夕焼」、「中世」……と続くので、作品の選出がかなりコアだなと思います。でもこういう入り口もとてもいい。はじめて三島を手に取った人が、このような作品から読んでいくのもよいと思います。この作家ならこの作品というのが暗黙のうちに決まってしまっていて、そこから読むというのが常になっているけれども、そうでなくてもいいと思うのです。

 「海と夕焼け」の中で、海を形容する言葉として「燦めく」(きらめく)というものが使用されています。私はこの字、初めて見ました。文学にはよく出てくるのでしょうか。調べると、偏(へん)である「火」と「ちらばる」という意味をもつ「粲」(サン)という字が組み合わさってできたもののようです。「燦」は「火の光がちらちらかがやく」、「きらきら光る」という意味をもつようです(旺文社の『漢字典』第二版を参照しています。家にあっていつも助かっています)。海を形容するときに「きらめく」という形容も珍しいですが、「燦」という字を用いるという点はさらに独自のものだと思います。目前の〈美しさ〉が目に見えるようです。三島という作家はこのような言葉を使っていたのですね。私自身はじめて知りました。作品を読んでみないとその作家のことはわからないなと思います。読んでもすべてはわからないですね。最近思うのは、わからないもの、わかりにくいものにしか、〈おもしろさ〉ってないんじゃないかなと。〈おもしろさ〉というのは、fannyではなく、interestingの方のそれです。腰を据えて、落ち着いて向き合うもの、こと、の中にしか〈おもしろさ〉ってないんじゃないかなと。忙しない生活をしているのでそういう風に思うのかもしれません。

 大変な毎日ですが、すべての人があたたかく眠れる場所があることを願います。今起こっていることは「遠い世界」の出来事なんかではないはず。自分にできることを考えていきます。

(今日はおしまい。冬至を過ぎたらまた昼が長くなるのですね。)

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