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ポエムだって言われても書きたいなにかがある。

演劇のチラシに載せるあらすじを依頼された。

依頼されたと言っても、仕事の類ではなく、演出を依頼された作品のあらすじだ。だから、演出業務のなかにあらすじ執筆も含まれていた、というニュアンスが正しい。

コピーライターという立場上の肌感覚でもあるけど、「文章力」がスキルとして求められる時代だ。おそらく、演劇のあらすじにも文章力が求められていて、だから僕に発注されているんだと思う。

演劇のあらすじと言うと、むかしよく話題になったのが「あらすじポエム」だ。

札幌の小劇場演劇のなかでもかなり小さい僕らの演劇は、往々にして作品づくりと広告づくりの順序が逆転する。ゆえに起こる現象があらすじのポエム化だ。

作品やそのもととなる戯曲が完成しないうちに、広告用のあらすじを書かなければいけないことがある。すると、演出家や作家の「こんな世界でありたい」「こういう衝動でつくり始めた」という個人的な思いがことばになる。というか、粗い筋書きすら決まっていないので、ほかに書くことがない。

結果、主観的なポエムがあらすじとして載ることになる。ストーリーを伝える機能も果たせなければ、感覚的におもしろくないと判断されれば魅力にも思われない。

こうして意味をもたないと判断されたあらすじが、嘲笑的に「あらすじポエム」と呼ばれていた。

ただ、「あらすじポエム」化した文章に、本当に意味はないのだろうか。

ユーザーに物語を伝えるという目的から「お前の気持ちじゃなく、客観的な文章を書け」という意見が出ることは理解できる。

ただ、それでも自分の内側を書かなければいけない人は、それを書いた方がいいと思う。

自分の感性に従って書かれたことばには、客観的な文章には宿らないエネルギーがある。その感性を欲している人が、世界のどこかには必ずいる。

あえて言えば、感性を伝えるための(客観的な)文章力というものはある。でもそれは、たくさん書くなかで身についていく。感性を磨きあげることよりも簡単だ。

感性は人の目に晒され、時代に揉まれて、鋭く磨かれていく。だから、あらすじポエムを書くべきだ(極論)。

周りが求めるからって、自分の感性をねじ曲げる必要はない。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」だ。

僕は思う。客観的な事実よりも、作品に込められたあなたの感性を、あなたを知りたい。すくなくとも僕は、「あらすじポエム」に共感したら作品を見たいと思うタイプの人類だ。

書こう。自分を。


演劇『泡にもなれない』

僕らのあいだに、いつか、
名前はつくんだろうか。

あえて言うなら、くされ縁。
でも、期限切れとは思えない。
歓楽街から歩けるアパートに、
10年来のメンツ。それだけ。
春から夏。集まって、また
すこしずつ離れていく。それだけ。
言えないことだってあった。それでも、
僕にとって、最低で、最高の連中だ。

作:畠山由貴 演出:鎌塚慎平
出演:キャス太、恩田直、永崎ちひろ、有田哲
演劇専用小劇場BLOCH・2023/1/21〜22

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トップの写真は、10月の大沼公園です。
晴れた早朝。澄んでいて、世界に誰もいなくなったのかと思った。


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