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「音楽のように演劇をたのしむ」って理想が、昔よりわかった気がする。

突然ですが、音楽は好きですか?

「嫌い」って答える人は少ないんじゃないかな。

「好き」か、「ふつう」だと思う。こういうとき僕は「好き」って答えるようにしてる。

音楽については、僕はけっこう好きな方だと思っていて、楽器もすこしは演奏できるし、AppleMusicにも登録している。

そして音楽好きが高じて(?)、いつしか演劇について、こう思うようになった。

音楽みたいに、演劇をたのしんでもらいたい。


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はじめてそう思ったのは、いつだったんだろう。

記憶の限りでは、学生のころすでに、音楽みたいにたのしめる演劇にあこがれていた気がする。もう10年以上むかしのことだ。

そして当時からいままで、音楽みたいにたのしめる演劇をつくりたくて、たびたび音楽的要素を組み込んだ作品をつくってきた。

たとえばリズミカルにセリフを言うとか、韻律を工夫してみるとか、声の高低を気にしてみるとか。

でもいま思えば、それはあまり意味がなかった。

僕があこがれたのは「音楽のような演劇」ではなく、「音楽のようにたのしめる演劇」なんだ。

いくら音楽っぽさを演劇に取り入れても、それが僕の理想に直結するわけじゃなかった。


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話はすこしかわるけど、僕はコンセプトを大切にしている。

ものづくりのコンセプトとは「だれが」「どんな理由で」「どういう条件で」つくっているかだと思う。

どんなものにもコンセプトがあるし、コンセプトからものづくりははじまる。

作品や体験のカラーは、このコンセプトひとつでがらりとかわる。

だから僕は、演劇のコンセプト(ここでは手法)に「音楽」を取り入れた。これが先に書いたまちがい。

「音楽のような演劇」ができあがって、自分でつくったそれを見ても、なんだか思ったような手応えがない。


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そもそも、音楽をたのしむときに、コンセプトを意識するだろうか?

ショパンの「雨だれ」は、彼が肺結核を患って、恋人と療養のために暮らしていた島でつくられた(らしい)。手法としてはバッハの平均律を下敷きにしている(らしい)。

曲について考えるとき、こういった分析は必要だ。アナリーゼによって、曲から感じられることがふえるのも間違いない。

でも、多くの人が思う「音楽をたのしむ」とは、そういうことじゃない気がする。

たとえば夜にひとり部屋のなかで、コーヒーでも飲みながら音楽をかけて、なんとなくいろんなことを思ったりする。って感じ。

かなり美化しているけど、僕が思う「音楽をたのしむ」はこんなイメージだ。

「雨だれ」を聞いて、やさしいなあとか寂しいなあとかぼんやり思う。なんとなく窓の外を見て、音と重ねてみる。むかしの恋人を思い出したりする。そういう体験。

この時間のなかに、だれがどうつくったかという事実は、重要じゃない。

背景や手法の情報を取り除いて、作品そのものと自分とのやりとりをする。

この自由で、自分勝手なたのしみ方を、演劇でも実現したいんだ、僕は。


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このことに気づけた理由は、いくつかあると思っている。

ひとつはnoteで演劇の感想を書いていること。ひとつひとつコンセプトを調べることはしないから、好き勝手に作品について考えてみたらたのしかった。

ひとつは喫茶店によく行くようになったこと。コンセプトを客に感じさせないことが、居心地の良さにつながるのかもと考えるようになった。

ひとつは仕事を通して「コンセプト」自体の理解度が上がったこと。逆説的だけど、コンセプトを手放して考えることができるようになった。

演劇づくりは僕の趣味だけど、そこに生活と仕事の時間が響いている。

こういう生き方がたのしい。


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じゃあ、あらためて。音楽のように演劇を楽しませるには、どうしたらいいんだろう。

自由に、演劇作品そのものとやりとりをしてもらうには。

コンセプトのない作品をつくるために、僕はまたコンセプトを考えている。


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