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演劇の感想:クラアク芸術堂『男亡者の泣きぬるところ』|劇団コヨーテ『ライカジャンクライカジミードッグアイウォンチュウ』|

クラアク芸術堂『男亡者の泣きぬるところ』

12月19日(日)15時/札幌・カタリナスタジオ

また哲と伊達さんの芝居を見てしまった。うるさい。わかっていたけどうるさい。どうでもいいけど、お客さんが舞台に向かって喋る瞬間がけっこう好きだ。衝動だ。ぼくが見た回ではそれが起きた。気持ちいい。

ふたりともずっと大きい声でしゃべっている。『エダニク』のときほどではないが、代わりに体もうるさい。プロレスをしている。聞けば、プロレスがどうしてもしたかったのだと言う。これもどうでもいいけど、ぼくが『あゆみ』で使ったロープが舞台に使われていた。人の連続性を表していたロープが、殴り合いのリングに変わっていた。

たぶんあの芝居は、ずっとプロレスだったんだ。だれが見ているわけでもないのに、だれかが見ているかのように、だれかに向けて、ふたりで(言葉で)殴り合う。ステージ型のおしゃべりは、意識してみるといろんな日常で行われている。こういうコミュニケーションは、フィクションが先か、現実が先か。鶏が先か卵が先か。アメトークが先かすべらない話が先か。

ラストに向けて殴り合いは加速していく。ラジオのシーンが楽しかった。もはやこのふたりのどっちが優位かなんてどうでもよくなる。他人のマウンティングに興味はないし。それよりも、どうでもいい他者が必死に殴り合う姿を見て喜んでいた。野蛮な楽しみだ。ラジオのシーンではトークしているふたりのパートナー(おそらく同一人物)の役を交互に演じる。パートナーの奪い合いが行われている。なんかもうどうでもいい。他人だ、3人とも。

なかなか暗い設定で、なかなかなにかが起きそうなシチュエーションなのだけど、ばかばかしくて、あくまで興行なのだ。可愛そうな境遇の2人を、くっだらねえ~~と笑ってみていられるのは、エレベーターというおあつらえ向きのリングも効果的だったと思う。あと哲と伊達さんの滑舌の甘さも、ある意味良かったと思っている。はっきり喋られてもどうでもいいから、聞き取れないくらいでちょうど楽しい。笑

最初は「よくわからないなぁ、どこに落とすんだろう」と思っていたけど、頭をバカにして見るタイプの芝居だと思って、存分に楽しませていただきました。実際はどうだったんだろう。フライヤーやタイトルからは、もう少し深い意味を感じられそうな気もするんだけど。


劇団コヨーテ『ライカジャンクライカジミードッグアイウォンチュウ』

12月26日(日)14時/札幌・BLOCH

レザボア・ドッグスを舞台でやってみよう。という気持ちでつくられているのは間違いないと思う。レザボアは、端的に言えば、犯罪映画。『ライカジャンクライカジミードッグアイウォンチュウ』は、恋愛物語だった。

「レザボアっぽい恋愛物語やろうぜ」ってくらいのことは、ぼくのような若輩でも思いつきそう。でも、『ライカジャンクライカジミードッグアイウォンチュウ』は、っぽい作品ではなく、骨太だった。亀井さんのなかで、犯罪→恋愛の変換は、いつ、なぜ、どうやって起こったんだろう。

レザボアや今作の云々は抜きにして、犯罪と恋愛の共通点を考えてみる。世界を変えてしまうほどの熱。あるいはなにかを代償にしてでも得たいもの。しかしそれでいて、見逃してしまうほどの日常感。犯罪映画も恋愛舞台も、熱にうなされた日常を描いている、のかもしれない。

なんといっても俳優のみなさんの酩酊っぷりがいい。こんなことなんの意味もねえよ、と言わんばかりのどうでもよさ。かたや、きちんと意味を乗せてくるコヨーテ陣。でも結論はキャベツ。熱病から微熱へと変化するラストが気持ちいい。

ぼくが見たのは千秋楽で、「亀井健バイバイ公演」のまさにバイバイ回だった。亀井さんは冒頭しばらく舞台には登場しない。客席がみんな、亀井さんが現れるのを待っていた気がした。登場しただけで、拍手をしそうになった。作品の外の感情って、作品にとってどういう立ち位置になるのか分からない。ただ、ぼくは演劇を日常の中に置きたいと考えているので、たっぷり「バイバイ公演」に浸っていた。

自分は、いつかバイバイするときに、別れを惜しんでほしい気もするし、「あ、じゃあ、またね」くらいの微熱で終わらせたい気もする。

MatatabiRecords『蟲ふるう夜』

12月29日(水)17時/札幌・コンカリーニョ

コンテンポラリーダンスを見ようと思って、後輩に紹介してもらった。体験としてとてもおもしろかったのに、ダンスについて無知ゆえ言葉にできない。くやしい。ダンスの言葉や文脈を知りたいな。ダンスを軸にした作品をつくる人が、どういう思考回路でコンテンツを組み上げていくのかに興味がある。話してみたい。

音楽と光と美術と人の融合がすごい。それらにほとんど優劣がないというか、すべてひとつで、ひとつの作品っていう印象。演劇を見てそういう感覚になった経験は少ない。音楽家による生演奏、(たぶん)ほんものの植物を使った美術、ダンサーのパフォーマンス。それだけで価値のあるひとつひとつを、組み合わせてあたらしい作品に。すごい。

コンテンポラリーという言葉は「現代的な」みたいなという意味だけど、アートの世界では「新世代的な」になるんだろうか。つまり「あたらしい」ってことなんだろう。どうでもいいけど、コンテンポラリーダンスのことを「コンテ」と略すのは一般的?個人的には違和感がすごい…。

舞台俳優の体にはセクシーさが足りないんだなとか、そんなこと思って見ていた。ひとことも喋らないのに、ずっと見ていたくなるんだから。ひとことも喋らないからこそなのかもしれないけど。

2021年最後に見た作品は演劇じゃなかった。でも、この年に見たどの作品よりも刺激的だったし、「あ、なにかつくりたい」って思った。創造力とか、知性みたいなものを、思いっきり揺さぶられた気がしている。



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