「論理的である」ということが間違いとされる(こともある)世界にいる。
(大声で言いたいことじゃないので、読みづらい書き方をしました。)
ぼくは、数学が好きだ。
数学は、論理的な学問だ。
論理は、抽象的だ。だから、扱いがむずかしい。
論理的に説明できるということは、再現可能であり、互換可能であるということだ。
ぼくら演劇人は、ひとりで制作することはほとんどない。ごくまれにひとりで本を書き、出演するひともいるが、それでも客がいる。
チームで制作する以上、それぞれの創作論理を伝え、理解し合おうとすることでしか、共通言語は持てないと思う。
それでも、演劇の世界にいると、「非論理」を強く押し通そうとする、圧力のようなものを感じることがある。
ぼくだって、いますぐにすべてを論理的に捉えられるとは思っていない。
「論理で説明できないこと」は、ひとの心をゆさぶる可能性があると信じている。
でもひとつ、自分がまちがえないように、言っておくのは、「論理で説明できないこと」と「論理で説明しないこと」は、まったくちがう。
大昔、火は動物に説明できるものではなくて、非論理の存在だった。やがてそれは、制御可能になり、研究可能になり、理解可能になり、説明可能になった。
それでもいまも、火をみると興奮したり、おだやかな気持ちになったり、いろんなものを受け取ることができる。
論理で説明したがらないのは、対象が捉えられることで、その神秘性が失われる恐怖があるのかもしれない。
でも、ぼくらは、説明可能なものに感動できるし、逆に説明できないからって、感動ばっかりしてるわけじゃない
ぼくの立場で、言葉を選ばずに言うと、「論理的」であろうとしないことは、怠慢だ。怠慢プレーはやめろ。これは高校時代の数学の先生の口癖。
観察して、言葉にして、互いに説明して、捉えて、論理的に理解可能なものを増やしていく。
それでも、その奥の方にある、どんなに考えたってわからないものこそ、うつくしい。
3x=6の答えが2なのは、たしかに感動的だけど、ax=bの答えが、b/aだと分かったほうがいい。次は2次方程式が解けるようになるから。
ただし、aは0じゃない。その理由も、説明できる。
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