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マインドフルネス×禅の可能性


先日の落合 陽一さんのNewsPicksのライブ動画番組「WEEKLY OCHIAI」のテーマは

「禅・マインドフルネスを考える」

として以下の3名をゲストとした興味深い対談だった。

・山下良道(鎌倉一法庵住職、ワンダルマ仏教僧)
・ネルケ無方(禅僧、安泰寺 堂頭)
・平原憲道(慶應義塾大学医学部医療政策・管理学教室助教)



同じ禅寺、安泰寺で修行した山下良道さんとネルケ無方さんでさえ、「マインドフルネス」という言葉に対してスタンスが違うのが興味深かった。

 そもそも、禅の言葉に不立文字という「文字で真理を説くことはできない」という考えがあるように、言葉自体の表現力の限界の中で「マインドフルネス」という言葉を一つの定義に閉じ込めて意味を共有することの限界も感じる。

 さて、私自身は、Zen2.0に登壇して頂いている藤田一照さんに7年前に出会い、藤田一照さんと山下良道さんとの対談本アップデートする仏教に出会ったことから禅とマインドフルネスへの興味を深め、山下良道さんの青空としてのわたしという本により、禅とマインドフルネスへの理解を深めたところもあったので、マインドフルネスに対しては山下良道さんのスタンスに共感するところがある。

 マインドフルネスという言葉自体は、16世紀頃からあったと言われ、1881年にトーマス・リズ・デービッズという人が、『東方聖典叢書』の第11巻として、パーリ語で書かれた『仏教の経典(Buddhist Suttas)』にて、人生の苦しみから抜け出すお釈迦様が説いた教え「8つの正しい道」を示す八正道を翻訳する際に「サティ(sati)」という言葉を「マインドフルネス(mindfulness)」と表現したことが仏教と紐づけられた最初の時である通説であると言われている。


  サティ(sati)という言葉は、八正道の中での七番目の「正念」という「念」という字に当たる言葉であり、”常に今現在の自分の内側と外側の状況に気づいている状態”を表している。
(今に心と書いた「念」という字がマインドフルネスの言葉になっているのことの意味を改めて噛み締めたい。)


 この八正道は、東南アジアやスリランカで行われるテーラワーダ(上座部)仏教での根本的な教えであり、その中にマインドフルネスという言葉があった。
 日本に広まる仏教は禅宗はじめ、大乗仏教の教えが中心であったこともあり、マインドフルネスという仏教用語でもある言葉にはあまり馴染みがなかったと言える。

とは言え、同じ仏教でもあり、マインドフルネスという”気づき”に繋がる要素は日本の禅文化の中に多分にあり、それは日常に落とし込まれたものであった。茶道、華道、書道、香道、剣道、弓道、柔道といった「道」と名のつくあらゆる部分に深く染み渡っている。

昨年、山下良道さんが出された大変勉強になる本「マインドフルネス×禅」の中では、マインドフルネスと禅とが、どれほどお互いを必要としていたかを述べ、

日常を徹底的に重んずる日本の禅宗の伝統が、真のマインドフルネスとつながることで、奇跡の化学反応が起きるのです。今までの地球上のどこにもなかったものが、そこから生まれてくる。
 21世紀の現代日本で、マインドフルネスと禅とが真に融合を遂げたなら、世界最新の精神文化が生まれてくるでしょう。そのときに今の日本がすでに持っているもの、つまり国土の隅々までお寺があり、ほとんどの方が仏教徒であること、日本文化の中にしっかり根付いた禅は料理から、お茶から、何から何まで、これらが全部生きることになります。

と述べられている。
(山下良道さんが述べている「なぜマインドフルネスと禅とが、どれほどお互いを必要としていたのか、についての理由」について興味ある方は、是非この本を読んでみることをお勧めします。)

 日本の禅宗、曹洞宗のお寺で修行を行った後アメリカで布教活動を行い、その後にミャンマーのパオ森林僧院にてテーラワーダ仏教の修行。現在は鎌倉の一法庵で大乗仏教とテーラワーダ仏教を統合した「ワンダルマ仏教」を広げる山下良道さんのお話はとても興味深い。

 心理療法やビジネス現場で広がる科学的な側面を持ったことが強調されるアメリカ経由でのマインドフルネスが注目を集めるが、それだけではなく(それ以上に?)、テーラワーダ(上座部)仏教の中にあったマインドフルネスと大乗仏教の流れを組む日本の禅文化の中にある叡智が出会うことで生まれる新たな可能性に引き続き注目したい。




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