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【軽羹読書録】杳子・妻隠/古井由吉

ご機嫌よう。kalkanです。

いつかそんな日は来るだろうなと思っていたのですが、そうです。読書録を書く読了本が溜まってきております。

そんなわけで本日は前口上はそこそこに、ササッと始めさせていただきます。ササッ。


“杳子は深い谷底に一人で坐っていた。"
神経を病む女子大生〈杳子〉との、山中での異様な出会いに始まる、孤独で斬新な愛の世界……。

現代の青春を浮彫りにする芥川賞受賞作「杳子」。都会に住まう若い夫婦の日常の周辺にひろがる深淵を巧緻な筆に描く「妻隠」。卓抜な感性と濃密な筆致で生の深い感覚に分け入り、現代文学の新地平を切り拓いた著者の代表作二編を収録する。

こちらの作品は、以前読書録を綴った「第二図書係補佐」の中から読みたいと思った一冊。


帯が又吉氏なのだが、これがまた心惹かれる。

脳が揺れ比喩ではなく
実際にめまいを感じました。
身体に直接影響を
及ぼす小説があることに
驚きました。
新潮文庫帯より

脳が揺れる感覚とはどういうこと?
身体に直接影響?

今まで私が読んできた作品で、身体に影響を及ぼしたのは、村上春樹の1Q84だったのだが、こちらは青豆たちと勝手に友達だと思い込むくらい、世界に入り込んで出れなくなった。物語が終わって「ああ、帰ってこられた」と心の底から感じたのは、あれが初めてだ。

それ以来、村上作品を読む時は無事に帰ってくるという目標を持って心して読むようにしている。

閑話休題。

そんなわけで、身体に影響を及ぼすという作品に、私は挑戦したのであった。

【複雑な精神描写】

タイトルにもなっている主人公である杳子(ヨウコ)は、少し特殊な精神的病いを患っている。

現代的にいうと「アイデンティティ障害」に近く、杳子は「今この瞬間」の印象しか見ることが出来ない。

例えば以前来たことがある喫茶店も、周囲にいる人間や空気は常に変動するため、同じように思えず入店することが出来ない。

待ち合わせ場所には「この角○○m先進んだ先を右に曲がり…」と、音声案内をする地図アプリのように細かく自分の中でルールを作らないといくことが出来ない。

この苦しい病気を患っている精神状態を、さまざまな比喩で表現しているのが興味深く、そしてこの作品のなによりも大きなポイントであると受け止めた。

それは例えば大自然で表現されたり。
はたまたもう一人の主人公であるSという男性が見る世界として描かれたり、と、精神という複雑なものを、さまざまな比喩で表すことによって、どんどんと物語に落ちて行く感覚になっていく。

帯で又吉氏が書いていた「比喩ではなく実際に目眩を感じた」というのを身をもって実感した。


【杳子に依存して同調していくS】

この作品のもう一人の主人公が、杳子に惹かれて徐々に杳子の病気に同調していってしまうSという男性だ。

彼も元々神経衰弱で、そういう点では杳子に「似たもの」を感じて惹かれていったのかもしれない。

最初こそ杳子の症状を良くしようと前向きに接していくものの、段々とその読めない症状に苛立ちを覚え始め、杳子と距離を置いて行く。

しかし距離を置いて、会えない時間が増えると、作中でS自身は気がついていないようだが、杳子に依存している様子が伺える。

恐らくそれは、彼自身が自分の神経が衰弱していることに気がついているものの、認めることを拒み、杳子という存在で「自分は正常なのだ」と言い聞かせていたことに関係する。

つまり、比べる対象である杳子が居なくなってしまったことによって、否が応でも自分と向き合うことになってしまったのだ。

そして彼は杳子の元に訪れ、杳子と同じく過去に精神を患っていた姉にこう思う。

杳子がいま病気で、あなたがいま健康だと、どうしていえるんです。

これはもしかしたら自分自身に言い聞かせていたセリフなのかもしれない。

このあと、病院に行く決心をした杳子に「行かなくてもいい」と彼は言う。
それはやはり、自分自身が抱えている病いを認めたくないという気持ちの現れとも読めた。

【軽羹読書録】

比喩に比喩を重ねた文章は難解で、だけどそれだからこそ没頭してしまった。なんだろう。足が着きそうで着かない水の中でふわふわと泳いだり、潜ってみたりしてギリギリを楽しむ感じに近かった。

この物語にハッピーエンド(という表現が正しいのかわからないけれど)があるのだとすれば、杳子は病院には行かず、Sを支えながら生きていくことなんじゃないかな、と思います。

杳子は自分のことがきちんとわかっているけれど、Sはわかろうとしていない。

Sにわからせるためには、杳子が必要で、一見すると共依存になりがちか関係性だけれど、杳子はきちんと自分の病気と向き合えているから、きっと大丈夫だと思う。

いや〜でも難しかった(笑)
そして、常に二人が近くにいるような感覚を覚えながら読んでいました。

本を読んでいる時って、日常生活の一部に物語の世界を感じる時があると思うんですが、この作品の場合はそれを感じる瞬間があまりにも多過ぎて、例えば近所の河川敷に居ても、近くにいるカップルが杳子たちなんじゃないか、と錯覚してしまったほど(笑)

今まで如何にわかりやすい表現の作品ばかりを選んで読んできていたのか…ということを突きつけられたような作品でした。精進します。


というわけで本日はここまで。
お付き合い頂きありがとうございます。
kalkanでした!

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