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主婦業は、ブラック企業。

先日実家に帰ったら、久々に母親がお弁当を作ってくれた。

ここ1~2年は、オーガニックな食生活に拘っており、母の作る料理とは無縁になっていた。

ご飯に梅干し、卵焼き、ウィンナー、野菜を豚肉で巻いたもの。
現代の日本で言う、お弁当の定番メニュー。

白米も、砂糖が入った卵焼きも、添加物だらけのウインナーも、お薬がたっぷり投与された市販の豚肉も、農薬だらけのお野菜も、今は出来るだけ避けるようになったけれど、偶に食べた時の懐かしさは、気張りすぎている脳を溶かしてくれた。

メニューはともかく、高校時代は、ほぼ毎日、学校にお弁当を持って行った。
クラスの大半は、そうであったと思う。
だけど、本当に毎日、毎日お弁当を持ってくる人も入れば、3日に1回は、コンビニか売店で買ったご飯、という人もいた。

私は、圧倒的に前者だった。
偶に「明日は友達と学食に行くから」と、お弁当を断る日以外、母は平日はずっと毎日、毎日作り続けてくれた。

「今日はちょっと寝坊して時間がなかったから」と言って、卵焼きがぐちゃっとしていたり、ゆで卵が丸ごと1個入っていた日もあったけれど、それでも、一般的に見てお弁当として遜色ない程度を下回る日なんてなかった。

私が高校を卒業して大学に入学してからも、
最初のうちは、変わらずお弁当を作ってくれた。

ところが1か月ぐらいすると、高校時代と違って毎日学校へ行く時間も異なり、学食も充実している大学生活を前に、母も「もういいよね」とお弁当作りを辞めた。

私が大学を卒業すると、7歳離れた弟が高校に入学し、母のお弁当作りのキャリアが再開した。

文化部だった娘と比べ、食べ盛りの野球部の息子には、2倍の量のお弁当を作る必要があった。
部活の朝練が毎日あるため、朝も今までより早かった。
土日は試合があるので、お弁当作りに休みはなかった。

その上、家で食べる夕ご飯の時も、弟が食べる量は凄まじく、この頃の母は、いつもご飯を作っていて、我が家の一升炊きの炊飯器は、毎日稼働していた。

大変なのは、料理だけではなかった。

部活で着用した泥だらけのユニフォームを、
毎日洗う必要があった。
そのまま洗濯機に入れては汚れが落ちないから、いつもバケツに入れて洗剤とともにつけて、それから夜中に洗濯機を回した。

この頃の我が家の洗濯機は、毎朝毎晩、稼働し続けていた。


そんな母のキャリアが一旦終わったのは、今年の3月だった。
弟が高校を卒業し、地元を離れ、別の地で1人暮らしをする事になった。
4月からは、心配性の弟から毎日のようにかかってくる、
「銀行の振込って、どうしたら良いと?」
「シーツって洗えると?」
「カレーが汁っぽいけど、どうやって食べたらいい?」
という電話に応える事と、出来損ないの娘を時折心配する事が、母の新しいキャリアとなった。

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