【掌握小説】光・破壊・正義の主人公

書く練習のために、三大噺を始めました。
時折書いたものを公開していきますので、お付き合いいただければ幸いです。

今回のお題は、【光、破壊、正義の主人公】です。


 学校から帰ると、スマホのタイマー機能を開いた母がリビングに立っていて、
「15分」
 わたしを見下ろしている。口調は淡々としていて、涼しげな母の表情からも感情を読み取るのは難しい。
 テーブルの上に用意されている菓子パン2つに、パックの牛乳。
「……いただきます」
 チョココロネ、次にメロンパンを牛乳で無理やりお腹の奥へと流し込んだ。
 焦って食べたので、思いっきりむせた。甘いパンだけなのも、苦しい。
 わたしの一挙手一投足を見逃すまいと、母は近くに立って監視している。
「12分」
 無機質な声。
 わたしはゴミを捨て、お風呂場に向かう。


「0」
 シャワーを浴びてパジャマになったわたしは、和室にいた。
 ここから長い一日が始まる。現在の時刻、午後4時20分。
 開かれた押し入れ。真ん中の板に隔てられ、上段下段に分かれている。
「入って」
 母に手を引かれ、奥へ押しやられる。
 ドアの区切りの向こうから、ランドセルを渡された。
「約束。明日の朝まで、声を出さないこと」
 こくりと頷く。それを見た母がわたしに、
「じゃあ、おやすみ」
 と告げると、ぴしゃりと扉が閉ざされた。
 そのあとに、がた、がたという音。これで中から扉を開けることは叶わない。
 暗闇の中、自分の息遣いを近くに感じる。
 思う。どうして母は、わたしに厳しく当たるのだろう。理由を聞いても、答えてはくれない。
 物心がついた頃には、母はわたしを殴る人だった。あなたなんか産まなければよかった、とこれ見よがしに口にしている。
 押し入れに閉じ込められるようになったのは、小学校に上がってから。
 母が決めたルールは、学校がある日は午後4時までに家に帰ること。設けた準備時間が終わると、押し入れに入ること。その中で朝になるまで過ごすこと。
 トイレに行きたくても外には出られないとお願いしたら、気まぐれで時々様子を見に来てくれるようになったが、今日はどうだろうか。


 押し入れの中で、本を開く。
 暗いとはいえ、太陽が沈むまでの制限時間付きで、隙間から入ってくる光を頼りに文章を追うことが叶う。
 固い手触りの表紙の、分厚い本。学校の図書館で借りている好きな作家さんの小説である。
 幸いにも母は、ランドセルの中を確認しないから、こうして物を持ち込むことができる。

”壊れた世界 /春川遥”

 春川遥、という作家さんの物語が好きで、何度も借りては読み込んだ。貸出人のカードの欄にはびっしりわたしの名前で埋まっている。
 意味が分からない単語は、図書館の先生が教えてくれた。○○ちゃんは本当にこの作家さんが好きなのね、とからかわれるように言われるが、単語の意味が分かると綺麗な物語がさらにキラキラと輝いていくようで、たくさん聞いてしまう。
 文体が好き、展開が好き、挙げれば永遠と好きなポイントを言える自信があるが、わたしがこの小説を好きになった最大のポイントは、主人公の心情の描き方だ。豊かな語彙と、綺麗な表現力で紡がれる主人公の感情表現は、何度読んでも美しい。
 物語にはたったの二人しか登場人物が出てこなくて動きが少ない分、心理描写を大事にしている、気がする。生まれたから一度も他者に触れ合ったことがない主人公と、その友達。ひとりで生きてきた主人公は自己が完成されているのだが、友達との関わりの中で、ズタズタに壊れていく。

 陽が落ちると、何も見えなくなった。何もできない状況は身を犯す毒のようで、たちまち気が狂いそうになる。
 一度騒いだ時は殴られ、罰として次の日から三日間ご飯がなくなった。何もできず無限と思える夜を、ただ耐えるしかない。

 ある日、遊びを思いついた。
 去年のことである。何となく図書館で手に取った『壊れた世界』を読み終えて、隠された宝石を見つけたような感銘を受けて、主人公の台詞を口に出してみた。するとやっぱり綺麗な響きで感動した。
 文章を全部、憶えよう。
 神からの天啓のように、閃きが舞い降りた。夜を潰すひとり遊びは、一通りやりつくしていたと思っていたが、この遊びは達成するには非常に難しく、時間を潰す行為としては最適だった。その日からわたしは、取り憑かれたように同じ本を繰り返し読んでいる。
 学校にいる時や押し入れの中で、時間の限り文章を追っては、暗くなれば記憶を頼りに、文章をそらんじる。今では、大抵の文章がすらすら出てくるまでになった。
 わたしの人生で一番幸せなのは、この小説に出逢えたことだ。
 相変わらず夜は孤独で生き苦しいけど、この本がその苦しさを和らいでくれる。
 今日は、金曜日。母が毎週会っている、あの男性がやってくる曜日である。
 眠っていると、聞こえてくる母の喘ぎ声で目が醒めた。耳をふさいで頭の中にある本棚から大好きな小説に縋った。


 その日は母の機嫌が悪かった。学校が終わってすぐに家に帰ってきたというのに、「遅い」と殴られた。怒られるのは珍しくないが、最近では母が言うことを守っていれば大丈夫と思っていたから油断していた。
 何度か殴られて、床に倒れているわたしにランドセルの中身がぶちまけて、足蹴り。お腹を押さえてうずくまるわたしに、
「今日部屋にあったんだけど、ねぇ、これあなたが読んでるの?」
「ぁ」
 それは大好きな小説『壊れた世界』だった。
「返して。大切なものだから」
「本当にあたしの子供?」
 ませたガキ、こいつのせいで、とぶつぶつ呟いていた後、髪を掴まれて台所に連れてこられた。
「黙って見てなさい」
 戸惑うわたしの視線と、母の鋭い視線がぶつかる。
 手元でかち、かち、とライターに火を点すと、
「もう全部、終わり」
 シンクの中に置かれた本に、火を近づけて燃やしてしまう。
 炎はみるみる大きくなって、部屋全部を飲み込んでしまうのではないかと思った。煙でせき込んでいると、蛇口から水が出る音。
 母が水を出して鎮火させたのだ。
「初めからこうしてれば良かったんだわ」とわたしを一瞥し、家から出て行っていった。
 焦げた匂い。火災報知器がうるさかった。
 シンクを覗くと、本が黒ずんでくたくたになっていた。
「……謝れば、ゆるしてくれるかな、」
 図書館の先生は、わたしに甘いところがあるからきっと許してくれるはず。
「……だめだなもぅ」
 理不尽な母の怒りに触れて、疲れた。身体が痛い。
 ひとしきり泣いて、立ち上がると、机の上に菓子パン二個とパックの牛乳があるのに気がついた。
 本を置き忘れたことで母の逆鱗に触れたのだ。わたしは悪いことをした気になって、ご飯を食べずにそのまま押し入れの中に入った。
 朝になっても、母は帰っていなかった。
 戻ってきたら謝ろう、許してもらえないかもしれないけれど。再び押し入れで母を待つ。
 だがそれから一週間経っても、母が帰ってくることはなかった。


 都内のマンションから、小学生の女の子が飛び降りるという事件が起きた。
 女の子が飛び降りたとされるベランダには、黒ずんだ本と、”大好きな小説家”と書かれた遺書と思われるメモが残されていた。
 この事件をテレビは、大々的に報道した。虐待、育児放棄をテーマにキャスターたちが討論する。母親は今でも行方をくらましているという。
 そんな中、意識不明の重体だったわたしは目を醒ました。奇跡の生還だと、これも大きくテレビで報道された。
 病室でぼうっと過ごしていると、青い服を着た人たちが来て、しばらく話した。
 君は悪くない、と言われてもよくわからなかったが、頑張ったねと言われて涙が出た。
「……先生に、会いたい」
 春川遥先生。わたしの大好きな小説家。
 先生がいなかったら、きっとわたしは耐えられなかった。

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