今日の俺の 背中に手を当てて

 言葉をかけてやりたい。朝から悲しんだり落ち込んだり、人と比べて憂鬱な気分にならなくて良いと。

 昔から、外に出るより家の中で何かする方が好きだった。生き物なんだから、体を動かす気持ちよさはある。今でも、考え事しながら散歩を始めたら、気づけば1時間経って、体がスッキリしている事もある。
 ただ、選べと言うなら部屋でゲームをするのが好きだった。小学校に入っても漫画を描くのが好きだった。走って外に出てボール遊びをするよりは、人気の少ない図書室で本を読む方が好きだった。スポーツと勉強を選べと言われたら勉強を選んだ。
 中学受験に始まり、進学校の定期テスト、大学受験。この家族の底上げをしておくべきだと判断した。それなりに難しい大学受験をパスした。その時点で、よくやったと言いたい。
 彼はそこに留まらなかった。6年間で大学をきちんと卒業した。資格も取った。浪人も留年もしなかった。もっと褒めてやりたい。
 「きっと真にここを離れることは出来ないだろうから」と思った。そしてだからこそ、一度地元を離れたかった。同級生と足並みの違う就職活動をした。全国的にも名の知れた就職先に決まった。俺なら出来るぜ、という気持ちよりは、えっ本当に?行けちゃうの?採用されたの??という驚きだった。そうだよ、お前東京行くんだぜ、と肩を叩いてやりたい。
 社会人として5年ちゃんと働いた。彼を絶賛してやりたい。辛い事やしんどい事が多かった。しかし頭の下がる人々との出会いもあった。1人で悲しくて悲しくて、情けなくて友人や同僚にも話せなくて、日記に何度も何度も長い文章を書いた。音楽を聴きながら当てどなく街を散歩した。病んでると言えば病んでたのかもしれない。通院もしなかったし休職もしなかったが、いっそせーので全部終わってしまえばいいのにとは何度も思った。
 そして6年目になった。新しい環境で、新しいことが始まって、また社会人1年目の時の様な、右往左往。どうしても、優れた周囲の人と比べてしまう。なんで俺はこんな事もできないんだろう。なんで何にもないところで勝手に躓いて、誰にも頼まれないのに悲しい思いをして、落ち込んで手が鈍って、机に座る割に作業時間が短く、頭の中でやきもきする割に荒い完成度なんだろう。それなのに、なぜ疲れ果てているんだろう。
 疲れるさ。疲れるだろうとも。だって君は、なぜここまで来て、これをやろうと思ったのか、分かっているような、わからない様な状態だ。だけどやってみたくて、出来る様になりたくて、教えてもらいたくてここに来た。
 ここは教えてもらえる場所でもあるけど、学生じゃなくて社会人だもの、どこでも勝手にやれるような人が、最高の環境でハネるために来る場所だ。モチベーションが高いという貴重な人々が集まって切磋琢磨する場所だ。受け身な人間が混ざり込むと、サンドバッグかスポイルされるに不思議はない。その環境をどう泳ぐかは、処世術の腕の見せ所である。 
 でも、処世術で日々を過ごせば、部屋に入って扉を閉めた時、なにか虚しさが自分の中心にある事に気がつくだろう。処世術は目の前の状況に対処し、凌ぎ、乗り越えるための一時的な方法であって、正面突破の正攻法ではない。俺が俺であるための、俺はこうだと言う自尊心、俺は俺を人と比べない、俺は俺のやりたい事をやるぞと言う軸と強さの源にはならない。
 日中の業務が終わり、プレゼン資料作成の続きに手をつけて、手が止まり、外を歩いて大勢のサラリーマンとすれ違いながら、俺は自分で選んでここに来た。ここまで来た。自分で選んで今の課題に取り組んでいる、と決意で胸を満たす。日々は戦いの様だと思う。本当は楽しんで遊べたらいいだろうなとも思う。でもさあ、よその庭は、なぜかいつも青いのよ。俺は俺の今を感じなければ。
 疲弊し切った夜も、準備に時間ばかりかかったプレゼンのクオリティが上司に褒められなくても、毎日顔を合わせる同僚に後塵を拝す思いをしても。そうかも知れないけど、そこは、1番大事なとこではないのよ。お前が1番気にすべきは、そこではないのよ、って事を、俺は今日の俺の背中に、俺自信の背中に手を当てて、お前は素敵な男だよって、言葉をかけてやりたい。確かにお前が褒めるあの人みたいに、陽気で余裕にこなしていけるわけじゃないけど、それはお前が素敵な事とは、別のことよ、今日も1日頑張ろうなって、声をかけてやりたい。

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