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釣りは本性をあぶり出す

『FlyFisher』2015年1月号掲載

釣りを始めて驚いたことがある。
それは自分の感情を客観視できるという点である。それまで僕はあまり感情を表に出すタイプではなかった。冷静沈着、事を慎重に運び、結果を冷静に受け止めるクールなナイスガイだと自分を思っていた。
思っていたのに川で雄叫びを上げたのだ。初めて魚が釣れたとき、両手を高々と空に突き上げて叫んでいたのだ。
これに僕は驚いた。
クールなナイスガイどころではなかったのだ。結果を冷静に受け止めるどころか、ラインは出しすぎて絡まり、背中のネットを取ろうとして落とし、魚のやりとりなんて考えられず、ただただ竿先を高々と掲げて魚をバラさないように慌てふためいていた。
15センチのヤマメ一匹にである。
独り川で釣りをしていると、ついつい自分の本性が露になるのだ。
周囲に誰もいないという状況は、感情が開放されるからこそ自制が利かなくなる。
喜びなどポジティブな感情の発露はまだよい。負の感情の発露は目も当てられない。
長い時間釣果に恵まれないときは特に酷い。
風が吹けば悪態をつき、木の枝にフライが絡まれば木々に悪態をつく。
しまいには川を流れている木の葉にまで邪魔だと悪態をつく始末である。
まさか自分がこれほどに不条理な悪態をつく人間であったとは驚きとともに発見でもあった。
そしてもっと大人の釣り、すなわち泰然自若である釣りを目指そうと改めて思った。そして「穏やかなる事を学べ」と言う言葉の出た意味を理解した。たぶんアイザック・ウォルトンも僕のように悪態をついて自己嫌悪に陥ったのだろう。
世が世なら僕が『釣魚大全』を書いていたかもしれない。

最近読んだ本の『黄泉の河にて』というピーター・マシーセンの短篇集の表題作は、スヌーク(アカメ)を釣りにきた白人夫婦が、徐々に険悪になっていくという後味の悪い話しであった。
釣果に恵まれず、ではなく、地元の黒人たちへの疑心暗鬼からという、白人夫婦と地方の黒人といういかにもなアメリカの問題を描いている。この白人の主人公は内務省に籍を置くエリートなのだけれど、差別に敏感であり、ことさらそれを是正しようという態度を地元民に見透かされ、また地元名士である白人の判事の態度へもつっかかるものだから、親交を深めるどころか、自分たちが問題に対して行動するべきか見て見ぬふりをするべきかで夫婦間でも衝突してしまう。白人の判事のもとで安穏と暮らしている黒人たちと、そこへ問題意識を持ち出す白人エリートの物語は、どちらが正しいとか間違っているかという結論は出さずに終わる。ただ、問題意識を持つ物と持たざるものの関わりは、一方の主張だけを押し付けただけでは解決しないということを考えさせてくれる。

今年故人となったマシーセンは、作家であり、ナチュラリストであり、探検家であり、漁師であり、禅僧であり、俳人でもあったという。なんとも多彩な経歴を持つ人物であったが、その現実的な考えと達観した物言いは、読後にしばし考え込んでしまうほどに奥深い作品である。

郷に入っては郷に従え。
河に入っては河に従えである。
風が吹くのは自然の息吹と捉え、木々の枝葉にフライが絡まるのは自分のキャスティングが下手なだけなのである。
魚を釣ることだけに捕われると、美しい木々の色や川面の映ろいを見失ってしまう。
釣りを通して初めて自分の傲慢さに気付いたのだ。
「穏やかなる事を学べ」である。
だからそれ以来、木々が深い川は避ける事にした。
自分の本性はなかなか変えられないものである。

『黄泉の河にて』
ピーター・マシーセン/著 東江一紀/訳
作品社 2,808円 ISBN:978-4-86182-491-3

『釣魚大全 完訳 1』
I.ウォルトン/著 飯田操/訳
平凡社ライブラリー 1,512円 ISBN:978-4-582-76180-1

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