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人生を折り返した自分にとってすべてが儚くてとても美しい。|『百年と一日』柴崎友香

 数年前、北海道のとある町の病院前で雨の中バスを待っていた。バス停にはアルミのベンチが備え付けてあった。そこには帽子をかぶり白いマスクをした年老いた男性がベンチに座っていた。
「こんにちは」と声をかけると男性は視線だけを向け、僕の固定された右手首に目を落とすと「こらどうしたんですか?」といって小さな目を少しだけ大きくして顔をこちらに向けた。
「骨折しちゃいまして」そうと言うと、男性は「そうですかお大事に」と表情を崩さずに小さく頭を下げた。
「病院の帰りですか?」
言葉をかけると
「ああ、カミさんが入院していて毎日お見舞いに来ているんですわ」
といって男性は話を続けた。
「最近まで車で来ていたのに、ペースメーカー入れたら医者は運転してはダメだ言うんだわ。なんとか許可もらえませんかとお願いしたっけダメだぁダメだぁ言うんです。したからこうして町からバスで毎日病院へ来とるんだわ」
男性はそこまで言うと深く息を吸い込んで静かに吐き出した。
男性は「どちらからですか?」と聞いてきた。
「栃木からです。旅行中なのに災難でした」
と言って僕は包帯で固定された腕を男性の顔の前まで持ち上げた。
「内地からですかぁ。わたしはここで生まれてここで育ったから内地には一度も行ったことないんですわ。戦争の時は空挺に志願せえ志願せえいわれたんだが家のもんはいなくなったら困る言うので空挺には行かなかった」
男性は続けた。
「親父の実家は新潟で、弥彦神社っちゅう有名な神社のそばにあると聞いたけど結局行ってないですな。わたし庄司(仮名)と言うんですが、そこ行って庄司といえばすぐわかると言ってましたが、もうわたしは来年九十になるから今更内地に行くのは無理ですなぁ」
と言って男性は短く笑った。

彼の言葉は出会ったばかりの僕にとってはった数分の物語ではあるが、彼にとっては九十年の歳月だった。

『百年と一日』は風変わりな小説だ
“一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再開したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えてない話”
という長い題の一篇は、その題名通りに二人の女生徒が渡り廊下でキノコをきっかけに出会う話。二人はその後大学時代に一度出会ったきり、三年後も十年後も二十年後も出会うことはない話だが、それがたった8ページで描かれる。高校時代話から次の行では「三年後」といったように時制が数年単位で一気に飛ぶのだ。

本書の話のほとんどは“とっておきの”話ではない。
屋上のある部屋を渡り歩く話、噴水のある地下道で出会う女性の話、猫をつけていくと空き家だった話、だれしもにある「そういえばこんなことあったぁ」程度の会話の話だ。
しかしこれが妙に味わい深い。

この風変わりな短篇たちは僕がバス停で出会った老人の話と同じだ。食堂で出会ったおばさんたちが僕と同じ名前だと言って東京に住む親戚のタケシの話を僕に一生懸命聞かせてくれたのも、カーディーラーから転職して故郷から遠い地でタクシー運転手をしていると語った男性、茨城から若気の至りでで北海道の根室で土産物屋をやっている女性の話も、みんなこの『百年と一日』と同じだと思った。

とくに面白い話ではない。人に話すようなオチもない。それでも自分の人生のささいな出来事をふと赤の他人に話したくなるときがあるものだ。

祖母の祖母、父の父といった百年前の話から明日の一日までがあっという間に語られる『百年と一日』は、父の遺品のアルバムを整理した時の感覚に近い。僕が生まれたときの父と母の写真、交際していた若かりし頃の両親の写真、丸刈り頭の友人たち三人でポーズを取っている父、祖父母に抱かれた幼い父。祖父が小銃を肩から下げ厚い毛皮を着て座っている満州の写真。父の人生が僕のアルバムをめくる手によってあっという間に過ぎていく。
そんな感覚が本書にはある。

もしこの本に僕が二十歳で出会っていたら、この感覚は持ち得ていなかっただろう。もしかすると意味さえもわからず、ただの日常の羅列に過ぎないと感じたかもしれない。

藤に覆われるタバコ屋、居座りる続けるラーメン屋、古びた喫茶店。小説に登場するすべての出来事や景色に、かつて見た自分の記憶と重ね合わせている。
人生を折り返した自分にとって『百年と一日』の短篇すべてが儚くてとても美しい。

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『百年と一日』
人間と時間の不思議がここにある。作家生活20周年の新境地。この星のどこかにあった、誰も知らない33の物語。人生と時間を描く新感覚物語集。
柴崎友香/著 筑摩書房 1,540円

柴崎 友香 (シバサキ トモカ)  

1973年大阪生まれ。2000年に第一作『きょうのできごと』を上梓(04年に映画化)。07年『その街の今は』で藝術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞、10年『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞(18年に映画化)、14年『春の庭』で芥川賞を受賞。


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