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付記:伊藤計劃が死んだ日

 3月6日、伊藤計劃が死んだ日をnoteにアップロードした。


 この文章を書いたおかげでやっと、幼稚園児の頃から悶々としていた疑問を言葉にすることができそうだ。

 当時、「この世にはこんなにたくさん人がいるのに、なんで自分の感覚しか感じられないんだろう」みたいな思考に陥っては怖くなっていた。
 ありとあらゆる人間や動物を含めた「生命」がそこら中にいるのに、なんでこの「意識」は、茨城県○○市△△町□□丁目●●番▲▲号の2階の寝室で横になっている僕に宿ったんだろう。なんでわざわざ僕を狙い定めたんだろう。この世界を観測しているという証明が絶対にできる人間が僕だけなのはどうしてなんだろう。みたいな感覚。
 ここまで言葉にはできていなかったけれど、とにかく、他人に感覚があることを確かめられない恐怖があった。
 すると、「命がある」のは自分だけで、他はみんなその辺の石とかと同じ物質でしかないんじゃ……ってことはママやパパにも「命はない」ってこと……? 怖い怖い怖い怖い……となって何度も眠れない夜を過ごした。
 我思う、ゆえに我あり。って言うけどさ。我だけじゃ心許ないじゃん。ママやパパが抱きしめてくれたとしても。だってまだ幼稚園児だもん。

 結論から言えば、その恐怖は当然だと思う。
 自分も含めたすべての命と呼ばれるものは科学で(それなりに)定義されているけれど、幼稚園児はそんなことを知らない。科学者が言う「命」とアニミズム的な「命」の区別なんてついていない。だってまだ幼稚園児だもん。

 他人の脳と僕の脳とをType-Cで接続して感覚や思考を渡せるようになっても、そのケーブルを流れる情報は情報でしかない。僕の感覚は、僕の脳が認識するから僕の感覚なのだ。
 クオリアはどこにあるのか? ではない。僕の脳にあるからクオリアなのだ。
 我思う、ゆえに我あり。


 こんなふうに思考の中で迷子になっていた僕を、伊藤計劃さんが拾って育ててくれた。
 そして今日、伊藤計劃さんから独り立ちできたのだと思う。彼は僕の思考の「実家」だ。
 淋しくなったら、迷ったら帰る場所でもある。

「誰かが孤独になりたいとしたら、死んだメディアに頼るのがいちばんなの。メディアと、わたしと、ふたりっきり」

伊藤計劃『ハーモニー』より

 とミァハは言った。
 喧騒から離れて、頼れる思想に身を預けることもまた「孤独になる」と言えるだろう。
 伊藤計劃と、わたしと、ふたりっきり。

 かつて新品だった『ハーモニー』から、微かに古本の匂いがした。
 まるで、身長を記録するために付けた壁紙の傷みたいだった。


📕伊藤計劃『ハーモニー〔新版〕』

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