伊藤計劃が死んだ日
※この記事は、伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)のネタバレを含みます。
私が食べた肉。私が飲んだ薬。それらはすべて私になっていく。
昔々、宇宙はビッグバンから始まった。その3分後に原子核が、24万年後に原子が生まれた。
生命は、そういった科学の――たとえば相対性理論の――悠久の時に明滅する結節点に過ぎないのだ。
ある日、その生命に「意識」が宿った。だから不安や喜びが生まれた。弱さや強さが生まれた。神が生まれた。タマシイが生まれた。人類は古来より、そのタマシイに神秘性を感じ、崇めてきた。
望遠鏡。それは、地動説を証明する物。
化石。それは、創造論を否定する物。
病院。それは、ある私が「タマシイ」と崇め奉ってきたものを、にべもなく科学に置き換えていく場所。
そうやって科学がすべてを覆い尽くして、観測と制御が不可能な宇宙が無くなっても、人類は二礼二拍手一礼やアーメンを重んじるのだろうか。
ゼウスには、彼が祈るための神はいたのだろうか。
私は、誰かの死に対してすぐに泣くことができない。非情者と思われるかもしれないが、理由はちゃんとある。
まず、「死」という概念の大きさに圧倒されて、脳が思考を止めてしまう。目の前に突然大きな岩の壁が現れたような感覚に陥るのだ。それを乗り越えるなり突破するなりするには、あまりにも長い時間が必要だ。
涙は、「理解した」悲しみを昇華――あるいは消化――する手段だと私は考える。当の私は、その誰かの死を理解していない。だから、泣かない。
そして、止まった思考の中でも私はわずかに考える。
「寸分も理解していない『その人の死』に対して流す涙は、むしろ無礼だ」と。
多くの人が「死→涙を流す」という行為をしてきたうちに、礼儀として定着してしまったのだろう。それでは手段が目的化しているではないか。
思考が止まってしまうほど、自分にとって大切な誰かの死である。その人に無礼な涙液を浴びせるような人間ではありたくない。
昨日、私は伊藤計劃氏の死に泣いた。
2年前、彼の作品を手に取った時、彼は既にこの世にはいなかった。
端的に言って、私は病弱である。そして、忘れもしない2号棟238病室で『ハーモニー』を読んだ。
この小説はたいへん形容し難い。長い入院期間で、総じて6回は読んだだろう。
『ハーモニー』は私に、思索のための語彙を与えてくれた。
超高度医療社会を築いた人類。野生を制御して制御してし尽くして、しまいには「意識」そのものをコンピュータの制御下に置いてしまう。
そんな事が起こるか、と思う方もいるかもしれないが、「抗不安薬」の存在は十分な裏付けになるだろう。
意識は、もとい命は、科学そのものだった。崇め奉るような聖なる領域ではなかった。
というより、科学と知ってしまったから崇め奉ることができなくなってしまった。
この体がちっぽけな錠剤1粒でどうにでもなってしまう怖さ(実際はどうにもできない事も多いが)は、私の中で科学に支配される怖さに変わった。
それでも、科学は自分で制御することができる。錠剤を飲むことも、治療に同意することも、私が選択できる。
人間が恐れるのは、同等の人間に支配されることだ。
そうやって私は、伊藤計劃氏の思想に理解を深めていった。
そして友人と「AIが意識を持つかどうか」について議論をした日の夜、22歳の私ができる最大限の「理解」を彼に持った。
涙は、「理解した」悲しみを昇華――あるいは消化――する手段だと私は考える。
だから、泣いた。
彼がこの世にいないということに。
私の思索を支えてくれた人が、もうこの世にいないということに。
私は「死」の一端に初めて触れた。
この文章は、私なりの伊藤計劃氏への弔いである。
弔いは故人のためではなく残された人のためにあると私は考える。
本来なら手向けるべきは花や線香だろうが、私は彼から貰った思索の語彙と、それを使って生み出した私の思想を手向けたいと思う。
私の入院中、そして休学中に大きな支えとなって下さった伊藤計劃氏に、「テクノロジーの子供たち」のひとりとして感謝いたします。
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