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10年前、最低な言い訳で留学から逃げた

はじめて海外に行ったのは、大学2年の夏休み、ドイツのワイマールへの語学研修だった。
漠然とヨーロッパに憧れていたわたしは、1年間の交換留学を念頭に置いて、その準備段階という位置付けでプログラムに参加した。

いかにもヨーロッパらしい、石畳の道、カラフルな屋根の家。欧米、アフリカ、アジアなど世界各地から集まったフラットメイトとの生活。憧れだった景色、求めていた環境が間違いなくあった。

だけど、わたしは全然それを生かせなかった。

英語もドイツ語も、比較的得意だと思っていたのに、いざ喋ろうと思うと全然出てこない。「しゃべれない自分」を見たくなくて、同じ大学から参加した日本人の友達とつるんでばかりいた。

◇◇◇

滞在期間が半分くらい過ぎたころ、週末を使って、ドイツ内の別の都市に交換留学で滞在している大学の先輩のところに遊びに行った。電車で郊外に行って、山に登って、ユースホステルに泊まって、いろんな話をした。

先輩は、親族からの資金援助がない状況で、留学費用をアルバイトで稼ぎ、大学の先生に頼み込んでスピーキングの個別レッスンを付けてもらって、留学のチャンスを手に入れたことを教えてくれた。
「留学行きたい気持ちがあるなら、どんなハードルも手を尽くせば乗り越えられるから、絶対行ったほうがいいよ。」
あまりにも説得力があった。

みじめな自分から逃げ回っていたわたしは、圧倒的にかっこよくてキラキラした先輩を目の前に、「留学しない」ためのあらゆる言い訳を封じられたように感じた。

そこで言ってしまった。一生後悔することになる最低の言い訳を。

障害のある姉がいるので、実家を長期で離れづらくて…」

知的障害のある姉がいるのは事実だ。でも、たまの母の不在時に留守番を頼まれることがあるくらいで、姉のせいで留学できないなんてことはなかった。

経験上、姉の話を持ち出すことが、相手を沈黙においやるパワーを持つことを知っていた。とにかくその場で、先輩からの「留学しなよ」プレッシャーを効果的にかわしたかっただけだ。実際、「そういう事情があるなら仕方ないかもね」と、気を遣ってそれ以上突っ込まれなかった。

姉自身にも、いままで「姉の存在によってわたしの選択肢が狭まらないように」と配慮しつくしてくれてきた両親にも、あまりにも失礼だった。

自分自身に心底がっかりした。その年、留学の出願はしなかった。

◇◇◇

大学3年の秋になって、就職活動を始めた。

漠然とした欧米憧れが捨てられないわたしは、メーカーや商社で、海外のグループ会社やクライアントとやりとりをして、入社数年後には海外駐在も経験して、というキャリアをなんとなく描くようになった。

説明会やOB訪問でそんなキャリアイメージを具体的にしていく一方で、あのときの言い訳がずっとひっかかっていた。

このまま社会に出て、目の前にチャンスが来ても、家族や周りの環境とかを都合よく言い訳にして、また逃げるんじゃないか。

ドイツ国鉄車内のボックス席で、先輩と向かい合って話したシーンが、何度も何度も思い返された。

◇◇◇

結局、就活を途中で全部やめて、交換留学の追加募集枠に申し込んで、ベルリンに行った。

留学が想定より1年遅くなったせいで、日本での新卒採用フローに乗れず、家族には心配をかけたけど、どうにか大手メーカーに拾ってもらった。

入社してからは、海外希望を上司にしつこく訴えて、3年目でトレーニー制度でバンコクに行かせてもらった。

ここまでやって、最低の言い訳をした自分に、やっと踏ん切りをつけられた。

◇◇◇

マルタの語学学校の寮でこれを書いている。
2社目の会社を辞めて、長めのお休みをもらって、ひさしぶりのヨーロッパに来た。

ワイマール・ベルリン・バンコクでの合計2年弱の生活を経て、海外渡航のハードルが徐々に下がり、今回は本当に気軽な気持ちで来れた。

新しいことをやるのに、100%楽しみなことなんてあまりない。不安が大半で、わくわくが20%あれば良いほうだ。
やらない理由を並べたくなるのを、たくさんの人に助けてもらって、なんとか行動できてきた。

転職前の休みをマルタで過ごすなんて、いかにもアラサーのOLっぽい。たくさん失敗してやり直してきたこれまでの思い出に、存分に浸ろうと追う。

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