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残る言葉は言葉自体に力があるわけではなく、言った人に力がある

意外と多くの方が勘違いしているのではないかと思うのですが、仏教=心に残る優しい言葉をくれるもの、ではありません、決して。
もちろん優しい言葉やいわゆる「イイ話」もあるにはありますが、厳しい現実を突きつけてくることのほうが多いように思えます。

このところ、九州から始まり日本各地で長雨による水害が発生しています。ただでさえコロナ禍で閉塞感が募っている中、そう言ったニュースを見聞きすると、いっそうつらい気持ちになります。
こういうとき、いつも思い出す言葉があります。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

災難に遭うときは遭うしかない
死ぬときは死ぬしかない
これが災難を逃れる秘訣なのだ

という意味です。
いやもう、それはそうなんですが。それを言ってはおしまいというか、こうもはっきり言われるとぐうの音も出ません。
私見ですが、一行目の「災難」が地震などのどうしようもない災害であるのに対し、三行目の「災難」は、苦しみ打ちひしがれてしまう気持ちを表しているのではないかと思います。
災害にあってしまうのはたしかに仕方のないことです。しかし、自分の心自体は気の持ちようでコントロールすることができる、災害に遭ったという事実だけでなく、自分で自分を苦しめるのは避けることができるのだよ、と教えてくれようとしているのでしょう。

しかしこれ、大地震で子どもを亡くした友人へのお見舞いの中に書かれていた言葉なのです。
今まさに苦しんでいる被災者に対してなんてひどいことを言うのかと思ってしまいます。
認(したた)めたのは「良寛さん」。
朗らかで優しい好々爺という印象を持っている人も多いのではないでしょうか。
この厳しい言葉を言ったのがあの良寛さんだと思うとなおさら意外に感じられます。
と同時に、良寛さんだからな、という気もするのです。
平均寿命が40歳に満たなかった当時、既に71歳の高名な僧侶であった良寛の言葉だからこそ、許され、受け入れられ、後世まで伝わるものとなったようにも思われるのです。
仮に僕が同じことをツイートしたら炎上間違いなしでしょう。

ところで、つい最近、これと似たような言葉を見た気がするのです。
いろいろと考えてみたら、たしかにありました。

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先日ジャンプで完結した大人気漫画『鬼滅の刃』。その21巻、主人公の家族を惨殺した鬼である鬼舞辻無惨の言葉です。

「身内が殺されたから何だと言うのか」(中略)
「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」
「雨や風が山の噴火が大地の揺れが どれだけ人を殺そうとも天変地異に復習しようという者はいない」
「死んだ人間が生き返ることはないのだ いつまでもそんなことに拘っていないで日銭を稼いで静かに暮せば良いだろう」

物語の舞台は大正時代。平安時代の生まれである無惨は、鬼となって1000年以上たつという文字どおりの「化け物」です。
その無惨は自身を災害や天変地異になぞらえ、それによって人間が死ぬのは仕方のないこと、いつまでもそんなことにとらわれず静かに暮らせばいいのに、と言うのです。

しかし、主人公・竈門炭治郎目線は、無惨に対してこう言います。「思い上がるな」と。
時間の厚みにも鬼の異能にも意識を向けず、単に「敵」としか見ていないための言葉なのでしょう。
そしてこうも言います。「お前は存在してはいけない生き物だ」と。
あるいは、炭治郎は無残を超自然の存在と認識したのかもしれません。それでも、それを受け入れることはできない、なんとかして制圧したいという思いからの発言だったとも考えられます。
実際、災害や天変地異を仕方のないものとは分かりながらも、人間は常にそれに挑んできました。
例えば、水害による被害を少しでも小さくするべく、私財を投じ人生をかけた偉人もいます。弘法大師、金原明善、玉川兄弟などの先人たちです。

それでも、それでもやはり、災害はなくなることはありません。
毎年、世界のあらゆる場所で地震が起き、台風が生まれ、竜巻が発生し、多くの人が日常を失います。
災いがこないように祈り、備え、それでも起きてしまう災害に争うすべはないのです。
職を失い家を失い家族を失い、その苦境の中から立ち上がるには、しなやかで明るい心がなくては前を向くことはできません。

……と、言ってしまうのは簡単です。
いかにもものの道理を言い得ているようにも見えそうです。
ですがこれを、今目の前で血を流している人に言えるかというと決してそうではありません。
これを言うのがその人の力になるかというと、決してそうとは言えません。

先の良寛さんの言葉も、ごく親しい友人に、文字で伝えたものでした。

蛇足にはなりますが、どんなに正しいと思えることでも、誰が言うのか、誰に言うのか、どうやって伝えるのかは、それが大事なメッセージであればあるほど重要なことです。
多くのことが遠隔で済ませてしまえる時代になっても、人間対人間の関係性や、相手のことをよく見て思いやる気持ちを忘れないでいたいものです。


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