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ひとはなぜ戦争をするのか

「終戦の日、何かしないの?」

予備自衛官という立場がらかそんなことを友人に聞かれましたが、特段この日になにか役割があるわけではないです。

ただ、民間人であり、軍人でもあり、戦争体験者ではないけれど、戦争体験者の祖父母をもつ世代の一個人として、今日は「戦争」についてすこし考えてみたいと思います。

ひとはなぜ戦争をするのか

かつて、アインシュタインとフロイトが挑戦したこの問い。

フロイトの言うように人間の本能的な欲動である、エロス(愛や保持に対する欲動)とタナトス(破壊や暴力への欲動)は、現代でも戦争を引き起こす要因ではあると思います。

ただ、フロイトの回答のみを引用してしまうと、よく教育され平和を愛し、道徳的な私たちはかつての反省から学び、破壊的欲動を制御して平和を実現できる。という結論で満足してしまいがちです。果たしてそれで十分なのでしょうか。

かつてに比べれば、国家間の武力による戦争は減りました。これは、たしかにフロイトの言うように文化の発展がタナトスを抑えたという見方もできるのかもしれませんが、それ以外にも様々な複合的な要因によって、かつてのような戦争の合理性や勝利によって得られる便益を期待でなくなったということが影響していることは事実です。

核兵器によって、各国の軍事バランスによって、情報の流れの変化によって・・

したがって、「ひとはなぜ戦争をするのか」に対する回答をよりシンプルに換言するならば、その手段をとらざるを得ない状態になった。もしくはそう感じたため。と言えるのではないでしょうか。

戦争を起こさせないために

戦争は、衝突する二国間の関係性だけで起こるものではありません。他国に「戦争をさせる」ことで、目的の達成を得ようとする行為は、はるか昔から行われてきた戦略の基本です。

つまり、戦争を起こさせないようにするためには、いずれの国においても戦争という手段をとること。または、とらせることが悪手であり続ける状態を維持すること、またそのことを主権者が認識できる状態を維持することが必要なのかと思います。

よく「過去の過ち、悲惨さを忘れない」という言葉があります。とても謙虚で内省的である反面、私はこの言葉に若干の危うさを感じます。

「自分達が反省さえすれば良い」と、視野がせまくなり、「昔の人は愚かだったけれど自分たちは違う」という欺瞞が生まれ、前述のような国家間の利益相反の構造や関係性の観点が抜け落ちることが懸念されるためです。

現代の争いを知ること

毎年、日本人が終戦の日に「戦争」を考えるとき、どうしても1941年時点の世界情勢、科学技術、教育レベルを前提とした「戦争」をイメージしてしまいがちです。

今後、私たちが、次の戦争を起こさせないと考えるのであれば、それ以降の動向や、現在、そして未来を考える必要があると思います。

旧来の国家間の武力戦争の代わりに、現代では情報戦や経済戦が繰り広げられています。

主力の兵器や戦術は変わっていたとしても、覇権を握るための鍵は情報であり科学技術であり、それを生み出すのは資源と人でありそれを競い続けてていることは昔から変わりがありません。

ただ戦争をすることはいけないと言って、思考停止したり、戦争をしようとするやつらはタナトスを抑えられない愚かな連中だと納得してしまうことは逆に戦争のリスクを高めることになります。

むしろ、かつて戦争に負けて奪われてきたもの、もしくは過去の人々が望まない戦いをして守ってきたものが、知らぬまに奪われていくというリスクの方が高いかもしれません。

現代の自分たちを知ること

現代では、国民に主権がありながらも、安定して平和な暮らしが続いたことでこのようなことを考える機会が少なくなっています。

また、情報化技術の発展は私たちに必要なことを学ぶ機会以上に、デマやFake newsの拡散など誤った理解や解釈を植え付けてしまうリスクも高くなってきました。

主権者として権利を獲得しながら享受される便利さに耽り、それを正しく行使する能力を失っていってしまっているということだとすれば、それは恐ろしいことです。

誤った判断、愚かな判断をしないために、考えや知識を常に更新し続けていくこと。善悪という観点に囚われず、冷厳な現実として人や組織の争いの発生のメカニズムに冷静に目を向け続けるということが求められているのではないでしょうか。

おしまい


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