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安心と安全について 防災防衛マンのつぶやき

はじめに

おつかれさまです。Webプロデューサーときどき自衛官のKakudoです。コロナ禍の夏いかがお過ごしですか。

以前のようにみんなが安心して過ごせる日常は戻ってくるのでしょうか。

安心•安全は古くからよく耳にするフレーズですがその解釈は多様であり、興味深い言葉です。
いつまでも、この言葉が取り上げられるのは、人の社会が常に「安心」と「安全」を追求しつづけているということなのかもしれません。

私も職務上、日常的にサービスの安全とユーザの安心について考える機会があります。

今回は、この安心と安全について、私の経験とそこで得られた知見から考察した内容を共有させてください。

誰向けの記事か

- リスクマネジメントの基本を学びたい方
- 顧客満足を向上させたい方
- 災害時のストレスを軽減させたい方

安心と安全の違い

 よく、セットで語られるこの言葉ですが、このふたつは明確に異なる意味をもつものです。

これをミッションや目標とするのであれば、それらは明確に意味を理解しないと達成することはできません。

広辞苑では次のように表現されています。

>安心
心配・不安がなくて、心が安らぐこと。また、安らかなこと。「それなら―だ」「まだ―できない」「親を―させる」
>安全
①安らかで危険のないこと。平穏無事。平家物語7「かの夭逆にをかされて、四海鎮とこしなえにその―をえず」。「家内―」「旅の―を祈る」
②物事が損傷したり、危害を受けたりするおそれのないこと。「―な場所に隠す

つまり安心は心のありようを、安全はある環境や仕組が危険な状態ではない程度を表す言葉です。

(「安心できるから好き!」って言われた彼女に、「安心しすぎて刺激がない」って振られた話きく?)

それでは、この二つは相互にどのように作用しうるのでしょうか。
まず、誰もが想起できることは

「安全」であれば「安心」できる。「安心」できるのは「安全」であるためだ。

ということだと思います。しかし現実には、単純にこの法則性が当てはまらない場合も多々あります。より正確性をあげるため言い換えるならば

「安全」だと感じたとき、ひとは「安心」する。「安心」している人は「安全」だと感じている。

というところでしょうか。

 前述したように「安心」とは心のありようです。
つまり、 「安心」を感じる条件や個々人によって異なるものであり、「自分はいま安全(危険な状態ではない)」と認知してはじめて「安心」することができるのです。

したがって、どれだけ安全性を高める施策をしていたとしても、それがその人の不安を取り除くようなものであると、正しく伝え理解されない限り人は安心することはなく、どれだけ安全な状態だったとしても、不安を感じてしまう人はいる ということになります。

「豊洲は安全だが、安心ではない」
これ、小池百合子さんの言葉ですがみなさん覚えていますか?
この言葉から氏のリスクマネジメントや政治的なアプローチを推察すると、いまのコロナ対応も客観的事実よりも、大衆の感情を重きをおいているのだと考えると合点がいくところがあるのではないでしょうか。

例えば、飛行機に乗るのが怖いので乗らないという方がいます。ですが、車の事故に合うのが怖いから道を歩きたくないという方はあまりいません。事故にあう確率は後者のほうがずっと高くてもです。

ニューヨークのクイーンズから一人で東京に遊びにきた友人は、東京を一人で散策するよりも地元のニューヨークの路地を歩くほうが安心だといいます。犯罪にあう確率は東京のほうが低くても。

ある人は、インターネットに実名を晒すことを恐れ不安に感じる一方で、ある人はFOMO(Fear Of Missig Out)と呼ばれるような、情報や社会性から取り残されることに不安を感じる人もいます。

これらの例からも、だれかに安心を与えるためには、単純に安全性を高めるだけでは十分でないということが理解できます。

安心と安全を得るために

 安心と安全が異なるものだとして、これらの達成を目指す上で、留意した方が良さそうな点を以下に列挙します。

安全の尺度は、前提付き条件下における相対的なものである

 「安全である」ということは、なんらかの危険を排除、または被害を軽減できるような状態であるということです。

つまり、「安全性が向上した」と言えるのは、想定された特定の危険に対応する仕組みが講じられ、結果的に危険の程度がその集団間において、客観的に許容範囲とされた時です。

したがって「安全性をあげましょう」という場合には、どのような危険性に対処をするのかを明確にし、比較対象と、前提条件を揃える必要があります。

安全は合理的に、安心は情緒的に

 ここまで述べたように、安心と安全が異なるものであれば、その対応も変わってきます。
安心が個々人の経験に根ざした感情的なものであるならば、その対応には情緒的なものが求められます。

 何に不安を感じるかは、人それぞれ異なることを理解して、「なんでそんなことが不安なんだろう」と感じたとしてもその気持ちに寄り添って、そのきっかけとなった出来事はなんであるのか?想像力を働かせる必要があります。

一方で、安全のための取り組みとは、個人ではなく、環境や仕組みを変えるということです。
環境や仕組みが複雑に絡み合っている社会では、なんらかの変更が別の危険性を生み出すことも考えられます。

 また、対策をするための資源は限られているため、ある不正行為や危険性に対応するためにリソースを投下すれば、それ以外が手薄になります。

 安全対策は、誰かの不安に脊髄反射的にそれに対応するのではなく、それによる影響と期待効果を比較し、合理的な判断をすることが必要になります。

恐怖や不安に対してはバイアスの影響を強く受けやすい

 人間の心理の特性について理解していくこともリスクマネジメントは役にたちます。
人は恐怖や不安に苛まれた時には、個人の程度はあれど冷静さを失い、視野が狭くなりがちです。

災害時にパニックによって別の被害が大きくなったり、攻撃的になったり衝突する様子はよく見聞きする光景かと思います。

反対に 危険に際しても行動ができなかったり、無関心になってしまう 正常性バイアス や、
自身の考えや思いこみに固執してしまい、他の意見や情報を受け入れられなくなる 認知バイアス も、安全性を高める活動には阻害要因となります。

安全性を高めるアクション

- 危険の程度を測る基準を決めデータを集める

- 収集したデータを分析し、取るべき安全対策を合理的に見極める

- 最新の不正やリスクのトレンドの情報を収集して、早期に対策ができるようにする

- 有限なリソースを効果的に配置し、柔軟に変更できるような体制をとる

- 安全対策の有用性を定期的に確認し、必要に応じ見直す

安心を与えるアクション

- 安心と安全の違いと、関係性を理解して、それぞれに合った対応をすること

- 個人の感情に寄り添って安心を提供すること

- 事実の情報開示による心理的影響やパニックのリスクを評価し、適切な伝え方をする

- 合理的な判断によって排除する危険性を選定し、安全性を高めること
 

最近、ネットで話題になっているブルボンさんの回答。
「安心」と「安全」それぞれに対する企業姿勢がわかりやすいですね。
https://www.j-cast.com/2020/07/31391258.html?p=all

おわりに(防災と防衛の視点から)

 今回の記事は、私の災害ボランティアや予備自衛官の経験、または過去のBCPのプロジェクトによって得られた知見から、汎用的で有用そうな内容を簡単に共有させていただきました。

災害ボランティアの避難所では、被災者一人一人の安心への渇望が、衝突や対立をうみ、全体の安全性を毀損することになるような光景も見られました。
 国の安全保障政策に関する対立も「不安と感じる対象」「想定している危険」が異なるために起きていることがほとんどだと思います。

家庭の安全から国家の安全に至るまで、大切なことは、危険は無くすものではなく、いかにコントロールするか。です。

 そしてそのために、回避すべきはパニックであり、パニックを防ぐには私たち一人ひとりが、冷静さ、情報を見極める賢さ、非常時にも認知能力を保つタフさ、そして弱っている人に寛容になれる優しさを平時から育んでいく必要があるのではないでしょうか。

・・・なんて、堅い話題に寄せなくても、「人の不安に寄り添う」「不安を感じる理由は人それぞれ違う」っていうところが一番大切なところなんではないかなーと最近思う次第。。

 安定して、知ることが増えて、自信がついて、不安に感じる機会がすくなくなるほどに、他の人の不安に鈍くなってしまわないようにしたいですね。

おしまい


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