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日本の劣化と森のようちえん(その2)

宮台真司の「今すぐ死んだ方がいい」の意味

この対談で宮台は、クズに対面するとすぐ「今すぐ死んだ方がいい」とか言う。その度に私は爆笑してしまうのだけど(笑)
この「死ね」の意味はけっこう深いと思っていて。
(その1)の冒頭でふれた「内臓感受」の三木茂夫。彼は東大の解剖学者で養老孟子の先輩なのだが、その養老孟子の言葉に真実はある。(と私は思っている)

養老孟子いわく。「最も合理的、効率的に生きたいならば、生まれてすぐお墓に行くのが1番」

これでしょう。これこれ。
そんなに損得が大事なら今すぐ死ねよ!それが一番コスパ良いよ、と。

「どうでもいいこと」と「どうでもよくないこと」

この分別がつかないバカが多すぎる、と宮台は言う。
本当に大切なものは何か?本質は何か?を考えないで、ツールである言葉や法の奴隷になっている、ということね。たくさんの多様な人間で構成される社会を営む上で、法や言葉はなくてはならないもの。でも人間の生きる意味はその法や言葉の外側にあるのだ。その外と内を上手くたゆたう為には時に「なりすます」「やりすごす」ことが必要だと。

本当うまいこと言うよね。「どうでもいいこと」は適当にやり過ごせばいいのだ。けど、この「どうでもいいこと」をあたかも死活問題のように捉えて勝手に生きづらさを感じたり、その不安を他者や子どもに押し付けたりする。

行政と接していると特に、この分別が本当に肝心だと感じる。次々くる情報や通達を切り分けて適切に対処しないと森のようちえんは守れない。

森のようちえんから小学校へ

森のようちえんがフュージョン(融合)の世界なら、小学校はコントロールの世界。おおたさんはその過程で大きく2通りの子どものタイプを示した。まずは、森のようちえんで培った心の柔軟性をもって小学校にもうまく順応していく子。他方で、学校でのコントロールに反発を感じやすい子もいる。

どちらも「どうでもいいこと」と「どうでもよくないこと」の分別があるからこそ成せる技である。ここすっ飛ばして不登校も何もないと私は思う。現実は、分別がつかず(あるいは大人にそう思わされて)「どうでもいいこと」に疲弊して結果的に不登校になってしまってる子どもが多いんじゃないかと思う。同時に「どうでもいいこと」を真に受けて、頑張って傷つきながらも順応できちゃってる「ふつうの子」もまた多いんじゃないかな。だから大事なのは「学校に行ってる/行ってない」の表層ではないのだ。

日本の劣化と森のようちえん(その3)に続く


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