聖なるティーポット 2020/09/12
日記
・食器にこだわってみようかなと思い始めた。少し前に小林賢太郎の展覧会で鼻兎のかわいいマグカップを買い、気に入って大事に使っているのだが、何かを飲むために食器棚からそのマグカップを取り出そう手を伸ばし、指先が触れると、薄っすらと気持ちが高揚していることにふと気づいたのだ。なんだろう、特別なものに触れているという感覚がひゅるりと伝わってくる。こんまりの提唱する「ときめき」ってこういうこと?
・こんまり、去年も十分流行っていたけど、家にいる時間が長くなった分、今年のほうがより爆発的に流行していたのではないだろうかと思う。
・食器棚をいろいろ見ていたら、めちゃくちゃいい感じのティーポットが出てきた。日本茶も紅茶も似合う感じの見た目が好きだし、機能面でも大きさの割に軽くて持ちやすいのが良い。どっしりとしているのに、妙にちょこんともしていて見ていると癒される……。
・さっそく紅茶を淹れた。
・濃い。ぐるぐる渦を巻きながら漂っているのは生姜。おかげで身体がポカポカして仕方がない。
・そういえば今日はやたらと使っているwebブラウザが強制終了してしまうことが多かった。なぜかTwitterを開こうとすると100%落ちる。たった今も開いた瞬間に落ちた。なんだこれは。Twitterを見るな!というお達しか。
・機械の不調で困ったらとりあえず再起動!
・したけど治らぬ……。
・あ、ブラウザのアップデートをしたら治ったぞ。わしの過失じゃん。人生こんなことばっかだわね。
・『聖なるズー』という、動物性愛者について書かれたノンフィクション本を読み終わった。
・月並みな表現ではあるけど、読む前と読んだ後で「動物」そのものに対するイメージがかなり変わった。少なくとも、動物の性を、「パーソナリィティ」を無視することができなくなった。
・この本に出てくる人たち、「ズー」は、日本で普通にペットを飼っている人たちよりも基本的には、ずっとずっと動物に寄り添っている印象を受けた。いや、「寄り添っている」という表現は適切でないかもしれない。ズーたちは、とにかく自らと動物たちの関係を対等に保つために努力している。その眼差しは、愛玩としての動物でなく、「個」としての動物に向けられたものだ。1人の人間と接するのと全く変わらない態度で、性欲もなにもかも、動物をまるごと受け入れて接している。動物は「子ども」でもなければ、癒やしの道具でもない。動物たちにはそれぞれに「パーソナリティ」があり、生きている。最初は「そんなもの人間の一方的な押し付けだ」と思いながら読んでいたが、読んでいるうちに、押しつけでも、都合のよい幻想でもないのではないかと感じるようになっていった。(私を洗脳するのは容易だぞ!)
・ズーと動物とのコミュニケーションは、人間側の一方的な「言葉」は必要とされず、態度や雰囲気、愛など、とても抽象的なもので交わされている。正直、理解できるかと言われれば、素直に頷けないが、動物との関係の中でそういうコミュニケーションにたどり着いたのだろうと納得はできる。(私を洗脳するのは容易だぞ!)
・やっぱり、私たちはあまりに言葉に縛られすぎているなと思う。言葉はいつでも欺瞞性をはらんでいると知っているはずで、それを何度も体感しているはずなのに、言葉さえあれば全ては伝わると信じている。
・動物を飼っている人は(たぶんズーたちは「飼っている」とは言わないだろう。ただ一緒に「暮らして」いるのだ)、1度読んで損はないのではないかと思う。普通に読み物としても面白いし。
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