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長女の愛され方、末っ子の愛し方

 愛されベタの長女が、七転八倒の末に不思議な存在“末っ子”に愛される話

 長女に生まれて数十年、とっくのとおに成人しているのだから、最早そんなカテゴライズもくだらないと思いながら、行動の端々にその性をみてしまう。

 
 例えば、自転車のチェーンが外れたとき、ひらりと飛び降り、どうにかこうにか元に戻そうとする。夜道を一人で、スマホのライトを頼りに。
 かたや同じようにチェーンが外れた時、妹は慌てふためいて、近くの彼氏を呼び出したんだそうな。
 
 チェーンでサビだらけになった手も、自分で修理をやりおおせた達成感も、くだらないもののように感じるかと思いきや、そんな出来事は飽きるほど経験したため、「あぁ、そうですか」と過不足なく額面通りに受け取るのみ。
 28をすぎて生き方なんて変えられないしな、という頑固な女がいるだけ。ただ、そんな風に生きられるなら愛され続けることはたやすいだろうな、とは思う。
そんな生き方ゼッテーやだけども。

 
 結局、言いたい事は長女は自分でやり遂げなければ気がすまないし、末っ子は誰かが助けてくれると自然体で待っている、という擦り切れきった考え方で。
 ちがう人は大勢いると承知しながらも、自分の生き方を勝手に当てはめて、多少窮屈な思いをしつつも、これが私のやり方だからと、余計なことを考えずにすむ状態に甘んじている。

 
 全動物の中で、ヒトは性別による身体的違いが少ない種族なんだそう。果たしてとも思うけど、よくよく考えるとチョウチンアンコウに比べれば人間の雌雄なんてたいした差じゃないよな、と納得。
 そんなんだから、男にできることはたいてい女にだって事実できるんだよ、このすっとこどっこい。
ただ、こと恋愛じゃそういう訳でもないんですよね。
男は頼られたいってどのハウツー本でも書いてるし、実感としてもある。そういう意味で、他人を頼ろうとしない長女は、圧倒的に損。

 
 いつもそうで、甘えベタな私は、何かを差し出さなければ、期待に応えうる人間でなければ愛されないと思っていたし、恋愛に限らず愛される訳は、先方の理想の条件をクリアしているからだと思ってた。提示される要求を越えつづけることが選ばれるってこと、豊富な話題があって、スタイルをキープして、いつも笑顔で、そんな障害物競争よくやってたよね、自分お疲れ!!

 
 難儀な思想を恋愛にまで持ち込むものだから、疲弊して、もう結婚も出産も視野に入れずにフラットでありたいと、こじれきっていた私に久方ぶりで訪れた春は、なんと末っ子。今まで彼氏、親しい友人も含めてほぼ長男ばかりの価値観で、上手くいきっこないと思いながらも新しい恋愛をこわごわ愉しんでいる。令和だ…

 
 彼と付き合ってから、その自然体さにおかしくなってしまう。お腹周りが気になるのは、付き合い始めの彼女のためではなく、健康診断に引っかかりたくないからだし、わたくし自慢の細い手首は、折れないか心配だからもっと太ってほしいなどと真剣に思っている。
 高尚な趣味をきどることなんてないし、小柄なことも、私が気にしてないですよ、とはっきりさせた時点で一切引きづらない。
 甘党の彼と二人でシェアするパンケーキの、一等素敵な部分は必ず私の取皿にいれてくれる。それは今まで私がやっていたことで、誰にもしてもらったことなんてなかった。
 百戦錬磨ではないはずだが、とにかく愛することが自然で上手な彼といると、肩の力がどんどん抜けていくのがわかる。

 
 違う世界線にいすぎて、上手く思想の輪郭を述べることができないけれども。とにかく、どこまでも親密な関係というものに対して、おおらかで自然体でいる。
 これを“末っ子”という特性に全て帰結させてしまうのは、非常に申し訳ないことだし、穏やかで優しい彼の人柄をとても尊敬していたりする。でも、どこかで愛され上手の末っ子だな、という気持ちも捨てきれない。

 
 一旦“愛す”という領域にはいって以降、彼は末っ子らしく満ち足りた様子で愛されきっているし、反対に何かを要求してくることも、決してない。
“彼”であることが愛される根拠だし、“私”でいることが愛する理由とでも思ってるのだろうか。
 縁側で満足げに日向ぼっこでもしている様な態度に、末っ子らしい彼の愛し方に、年甲斐もなく、救われている。

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