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黛灰をコンテンツとして消費していた人間が、コンテンツに取り込まれた話。
6月19日の新宿アルタビジョンの様子を現地で見た後に思考のまとめがてら書いたものもあるのでこちらを見てからの方がこの記事は読みやすいかもしれません。
黛のチャンネルで、6月19日の様子のデータがプレミア公開された。
サムネからもわかる通り、この視点は黛に焦点を当てたものというより、『新宿のアルタビジョンにカメラを向けるリスナー』や『何かのパフォーマンスかと思って通り過ぎる何も知らない人』、『特に何も知らないけれどなんとなく面白そうだから見たり動画を撮ったりしている野次馬』に焦点を当てているものと言えるだろう。
この動画で、19日に公開した記事で書いていた「外側の外側は内側ではなくさらに外側である。」という状態が出来上がってしまった。『コンテンツを消費する側だったはずのリスナーが、コンテンツとして取り込まれ、消費される側になった。』という構図が確立してしまったのだ。皮肉が最初から最後までたっぷり詰まっている。チョコレートだったらトッポにでもなっていたと思う。
こうなってしまうといよいよ黛とリスナー、どちらがコンテンツなのかがわからなくなってくるのだ。いや、もしかしたらどちらもコンテンツなのかもしれない。リスナーに野老山を消去するようにけしかけた第三者だけが消費者で、黛も我々もコンテンツだったのかもしれない。
今回公開された動画を見た人間も、もしかしたらコンテンツなのかもしれない。要するに『黛をコンテンツとして消費するリスナーを黛のコンテンツの一環として取り込んだこの動画見てコンテンツとして消費しているリスナー』をコンテンツとして消費している誰かがいる可能性だってあるというわけだ。そろそろコンテンツという言葉がゲシュタルト崩壊してきそうな気もするが、生憎私はコンテンツという言葉の類義語を知らない。
自らの外側に誰かがいて、自らを見て楽しんでいるかもしれないという可能性を、黛灰の物語をコンテンツとして楽しんでいる人間に対してお前も誰かの手の内かもしれないという可能性を、こんな形で見せてくるだなんて正直感嘆のため息しか出てこない。発想力がとんでもないのだ。
前回の記事(記事冒頭にリンクが貼ってある)を書いた時、私はバーチャルとリアルの境界線、人間と人工知能的生命体の境界線の話を投げられていたと思っていたが、黛灰が我々に投げかけていたのはコンテンツとそれを消費する人間の境界線の話も混ざっていたということが今回の動画ではっきりわかった。黛灰の物語で我々視聴者に伝えようとしていることは、我々が考えついたり思っている範疇よりもっと広く、もっと奥が深いのかもしれない。
そうして、私たちが黛灰をコンテンツとして楽しんでいる今この時も、私たちをコンテンツとして消費して楽しんでいる誰かがこの世のどこかにいるのかもしれない。
【リンク一覧】
黛灰
https://www.youtube.com/channel/UCb5JxV6vKlYVknoJB8TnyYg
お借りしたイラスト
https://www.irasutoya.com/2013/07/blog-post_7666.html
何かあればこちらまで
https://marshmallow-qa.com/c13_h16_cl_no?utm_medium=url_text&utm_source=promotion
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