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『黛灰の物語』の延長線上における"黛灰の引退"はあり得ないと思っている人間による『黛灰の物語』に関する個人的な考察

【2021年6月30日,2022年7月29日追記】

 『黛灰の物語』は2021年6月30日をもって一旦幕を閉じ、2022年7月29日午前0時17分をもって完全に幕を閉じました。
 本来ならば答えが提示された今、この投稿は削除すべきかと思いましたが『黛灰の物語』をリアルタイムで追っていたオタクの戯言として残しておくのもアリかなと思ったので削除はせず、このままにしておくことにいたしました。もし今この記事を読んでいるあなたが『黛灰の物語』を後追いで見ている最中にこの記事にたどり着いたのであれば、どうかこの記事は鵜呑みにせず、『黛灰の物語』をあなたの目で最初から最後まで全て見て、あなたの頭で考えて、そうしてあなたの解釈を確立してください。人には人の乳酸菌。
沢山の閲覧、本当にありがとうございました。

【諸注意】

 当記事はメタ的要素を含みます。『黛灰の物語』を彼固有の、彼のバーチャル生を彼自身の生き様として楽しみたい方は閲覧をお控えください。

【この投稿をするに至った理由】

 にじさんじにはリスナーたちの間で『黛灰の物語』という呼称で呼ばれていて、黛灰本人の再生リストにも同様の呼称で登録されている一連の大掛かりな作品とでも言うべきものが存在している。
 自分ももちろん、リスナーやにじさんじそのものを巻き込んだとも言えるこの作品を追っている人間のうちの1人だ。だが昨年からこの物語が進展するたびに騒がれる『黛灰引退説』というものに正直嫌気がさしてしまった。かと言ってなんの確証もなしに「黛灰は引退しない!」と声を上げているわけではない。きちんと自分の中で考えて、その上で『黛灰の引退はあり得ない』と思っている。
 『引退』や『卒業』という単語はどうしても目を引いてしまうため最初は少数派の意見だったとしても徐々に拡散されてミスリードを引いてしまう可能性がある。『黛灰引退説』もこの結果広まったものだと自分は思っている。沢山のプラスの言葉の中にマイナスの言葉がたった1つでもがあったらダメージが入るのと同じだ。だがこの記事は『黛灰引退説』を提唱している人たちを否定するためのものではない。どちらかといえば自分の思考の整理のためのものでもあって、さらに言えば例えば『黛灰引退説が囁かれているが自分はそれを信じていない/信じたくない、けれどどう自分の中で解釈を確立すればいいかわからない。』と思っている人たちの思考の助けにしてもらえたらいいな、というものでもある。
 前置きが長くなってしまったがこの記事は「『黛灰の物語』の延長線上での『黛灰の引退』はあり得ない」ということを証明するためのものとなっている。がしかし今後の展開が読めないのと、あくまで『考察』であるため普段配信を見聞きしているだけの1リスナーの意見という捉え方をしてほしい。この記事が100%正しいとも限らないし、この記事が100%間違っているとも限らない。全てを知っているのはこの物語を考えたシナリオライターただ1人だ。

【黛灰の物語の本質について】

 まずは単刀直入にこの点について書いていこうと思う。これに気づくに至ったのは2021年4月1日の配信「こんばんは」


にあったコメントの一つだ。それにはこう書いてあった。
 「この物語はVの中に三次元的存在がいることに正当な理由付けをしたいんだね」
 
所謂『Vtuber界隈におけるタブー』に触れないようにするために一部単語を置き換えてはいるが、もうこの時点でこの手の話題が無理な人は無理だろう。そういう人がいるのは仕方のないことであるし、むしろそのほうが健全なVtuberの楽しみ方だと思う。バーチャルはバーチャル、現実は現実。そういう棲み分けができている。二次元と三次元をきっちり分けることができている。至極真っ当な反応だ。なので無理だと思ったらこの記事は閉じてもらって構わない。この記事の始まりはこのコメントであるからこの時点で無理なのであればここから先の文章を読んでも納得いってもらえないと思う。
 話が逸れてしまったので元に戻そう。
 自分はこのコメントを見て、「これだ、このコメントが言っている通りだ。」と思った。『黛灰の物語』の終着点というかやりたいこと、成し遂げたいことは『Vtuberという概念を確立すること』『現在出回っている所謂Vtuberの中に存在する三次元的存在の概念というものを新しい概念とすげ替えること』の可能性があるのだ。
 だから野老山は2021年4月1日の配信で黛のことを『検体』と言った。その概念を確立するためのcase1だ。
 今のVtuber界隈では『Vtuber』と『Vtuberが内包する三次元的存在』という2つの概念を結びつけたり匂わせることはタブーとされてきた。(バ美肉おじさんは除く。彼ら彼女らはVtuberの中でも特殊な方の部類だ。)
 ではなぜその行為はタブーとされてきたのか。それはそもそも『Vtuberが内包する三次元的存在』という概念が『我々リスナーと同じ三次元(現実)的世界に生きている一般人』という定義がされ、それが一般化してしまっているからだと自分は思う。
 要するに『Vtuber』と『Vtuberが内包する三次元的存在』を結びつける行為が『二次元的存在』と『三次元的存在』をイコールで繋いでしまう行為とみなされているのだ。
 そんなことをしたらバーチャルはバーチャルではなくなってしまう。だから『Vtuber』と『Vtuberが内包する三次元的存在』という2つの概念を結びつけたり匂わせることはタブーになっているのだ。
 だがしかし、『黛灰の物語』の本質が『Vtuberという概念を確立すること』『現在出回っている所謂Vtuberの中に存在する三次元的存在の概念というものを新しい概念とすげ替えること』ことであるのならば、所謂『Vtuberが内包する三次元的存在の概念』というものの定義が変わる。『我々と同じような一般人』ではなくて『バーチャルの世界から何かしらの理由で三次元的世界へ降ろされた【元】バーチャル的生命体』ということになり、『Vtuber』という概念は『【元】バーチャル的生命体が一時的にバーチャルに戻ってくるときの身体』ということになるのだ。ここの説明が難しい。
 要するに、『Vtuberが内包する三次元的存在』の定義が変わることで『現実(Vtuberが内包する三次元的存在)』から『仮想(Vtuber)』が生まれたのではなくて『仮想(Vtuber)』から『現実(Vtuberが内包する三次元的存在)』が生まれたことになるのだ。
 例えるならばあれだ、絵柄のあるパズルをバラバラにして同じ柄の別のパズルと混ぜて組み立てたり、凹凸が嵌るようにとりあえず嵌めたような組み立て方をしたら全然違う絵柄になってしまっておかしくなるけれども、そもそも無地のミルクパズルなら別の組み立て方をしたり同じ柄の別のパズル混ぜて組み立てても元々無地なのは変わらないから矛盾が生じない…という感じだ。少し伝わりにくいかもしれないので今の例えは無かったことにしてほしい。
 別の方法ではあるが二次元的存在と三次元的存在が同じ時間軸に同時に存在可能であることを証明したVtuberがいる。加賀美ハヤトだ。
 彼は初配信で『WITHIN』を公開することで、 『加賀美ハヤトは加賀美ハヤトである』ということを我々リスナーに見せつけ、『Vtuber加賀美ハヤト』と『Vtuber加賀美ハヤトが内包する三次元的存在』の両方が同じ時間軸に存在し、それぞれ別の活動を行うことが可能であることを新たに定義付けして我々の固定観念を塗り替えて見せたわけだ。それと大体の方向性が似たようなことを黛灰は『黛灰の物語』を紡ぐことでしようとしているとしたらどうだろうか。

【野老山(通称:師匠)が黛灰の意思を考えない理由】

 そう考えると野老山が頑なに黛を介さずに我々に選択肢を選ばせようとしているのも納得が行く。あちら(黛灰側=Vtuber側)から突然新たな定義を投げつけられても、我々が自らその定義を定義付けして自らが持つ定義を上書きして保存をしないと意味が無いからだ。
 数学でたまにある『定義を証明する』というやつだ。あれは正直最初そもそも定義としてあるものをどうして証明するのだろうかと思うものではあるが実際証明してみると、定義がより理解できて自分の中での定義の解像度が上がるということが一度くらいはあったと思う。
 あとは友人に『○○は○○だから○○なんだよ〜』と言われても『いや自分は△△だと思ってるからそんなこと知らないし信じられないが……』となることは割とあることだと思う。そうなってしまっては意味が無いのだ。この『Vtuberが内包する三次元的存在の概念』=『バーチャルの世界から何かしらの理由で三次元的世界へ降ろされた、【元】バーチャル的生命体』という定義は、我々が証明して理解して飲み込まないと意味が無いのだ。

【なぜ概念を挿げ替えようとしているのか】

 ならばどうして黛は『黛灰の物語』を紡いでそんな概念を新たに確立したいのか。それは『Vtuber黛灰』としての活動も、はたまた『Vtuber黛灰の内包する三次元的存在』での活動どちらもを両立したいからだと自分は思う。あくまで私感だ。
 両立するためには他者からの目はもちろんだが自分の中での定義付けも必要だ。『みんなはこう思ってるけど自分はこう思ってる』ではいつか瓦解してしまう。周りの目と、自分の感覚が綺麗に釣り合う必要が出てくる。そのために、『黛灰の物語』はあるのかもしれない。
 ただ単に『黛灰の物語』を紡ぐことで『Vtuber黛灰としての生を終わらせる』ことが目的だったら野老山にあんなにヘイトを向けさせる必要はないだろう。リスナーを言いくるめてしまえばいいだけだ。でもそれをしないということは「野老山には従えない。黛灰を引退させない。」という方向に持っていこうとしているのではないだろうか。所謂『必要な悪役』というやつだ。
 というかこの記事を書いている間に思い至ったのだが、野老山がリスナーの『現実に降ろす=引退か?』という問いに対して『現実に降ろした後のことは興味がない。』と言っていたのは『黛灰の三次元的存在の活動はVtuber黛灰の活動とは関係ないから知らない。興味がない。』という意味だったのではないだろうか。それならあれだけ無責任とも取れる発言をしたのも納得がいく。
 あくまで個人的な考えではあるが、上のような考えから自分は少なくとも今年の夏までに黛灰が引退する未来はありえないと思う。
 
さらに言うなればこれは個人的な感覚にはなるが、黛灰が前例(鈴木勝・出雲霞)のどちらかと同じ道を進むようには思えない。考えにくい。だから『鈴木勝の物語』と同じような内容・終わり方でバーチャルとリアルを証明するとは思えないし、『出雲霞の物語』と同じような内容・終わり方で自らの物語を紡いで引退という形で幕引きをするとは思えない。あくまで個人的な感覚だ。

【野老山という人物に対する考察】

 話は変わるが自分は野老山という人物を見ているとある種類のVtuberリスナーたちがどうしても脳裏を過ぎる。所謂『後方P面リスナー』とか『後方彼氏面リスナー』と呼ばれる種類のリスナーたちだ。
 推しVtuberに対して「ワシが育てた」という顔をしたり自分はあたかも理解者であるかのような口ぶりするタイプのリスナーのことを指す言葉だが野老山はこの種類のリスナーたちの集合体、というか概念の擬人化のようなものなのではないのだろうか。
 だから2021年4月1日の配信で『黛灰を作ったのはあなたですか?』という問いに対して『何をばかなことを。そんなわけないでしょう。』と言っていたのにあたかも『自分は黛灰のマスターだ』と言わんばかりの態度を取ったり、黛灰のこれからを決めようとしている。さながら毒親だ。なんなら3Dお披露目配信のCパートでは『愛しい我が子』と言ったりもしている。
 さらに言えば野老山は『黛灰を現実にする』とは言っているのにその具体的な方法は何も話していないのだ。自らの力で現実の世界へ降りたのならその説明くらい容易にできるだろう。なぜしないのか。それは『野老山自身も第三者による選択によって現実世界へ降りた』からだと思う。野老山本人は自らの選択で現実世界へ降りたと思っているのかもしれないが実は第三者の選択が関与していた可能性は大いにあり得る。要するに、野老山自身もまだ物語の外側へ出られていない可能性があるのだ。
 それから、野老山は黛灰のことをどこか『つよくてニューゲーム』と思っている節があるようにも思える。
 これは1回クリアしたゲームをもう1周したり、隠し要素を探すときにあることだが、2週目以降というものは『1週目のクリア方法を踏まえて導き出された解』しか弾き出されないのだ。なぜなら『1周目の時の固定観念』がプレイヤーの脳にへばりついてるから、1度クリアしている自分の思考を信じて疑わないのだ。だから別の道がある事に気づかない。そもそも別の道があるかもしれないという事に思いいたらない。
 自分はバーチャルの世界から抜け出した、物語から抜け出せた。私なら抜け出し方を知ってる。だからお前も私が協力する方法で抜け出せ。そうしたら幸せになる。というのが野老山のざっくりした主張だが、それは本当に『最適解』で『幸せ』なのだろうか? 野老山が思っている方法が、本当に黛灰にあっていて、黛灰が幸せになるという証明はあるのだろうか?
 
それからこれはただの言いがかりのようなものだが2021年4月1日の配信で野老山が言ってた「あなた方が『何かある』と思ったから今日のことは起きた」という発言は、占い師が「あなたは大事な人を亡くしていますね?」というのと似ていないだろうか。我々が「何かあるんじゃないか、何かあるかもしれない」と思っていたのをいいことに、我々のせいにするために無理矢理結びつけたという可能性もあるのではないだろうか。たらればの話ではあるが、もし我々が2021年の4月1日には何も無いと思っていたら、野老山はどう言っていたんだろうか。

【終わりに】

 長くなってしまったが前述したような理由から『黛灰の物語』が『黛灰の引退』によって締め括られることはないと自分は思った。がしかしあくまで個人的な考えであることに変わりはないし、野老山のことについてであったり、コミュニティの『黛灰に関する所長の記録』にしっかり名前が乗っているのに今までの『黛灰の物語』において一切名前が上がっていない加賀美ハヤトについてのことなど、まだまだわからない要素は多々あるので今後の展開を見守っていくしかないのだと思う。
 しかし、野老山とリスナーの対話については今現在話は平行線のまま進まないし、『エゴVSエゴVSダークライVSまたしても何も知らない大泉洋』の状態だ。ここまでくるとエゴとエゴの頂上決戦になるのが関の山だろう。
 言葉は言霊、マイナスの言葉を言ったらそれが現実になる。考えうる最悪の展開を考えたら負けだ。『黛灰の物語』の今後がどうなるかは全くと言っていいほど読めないし、そもそも当てに行くこと自体無謀なことだと思うので、結局言えることはこれに尽きるのだろう。
 以上。

【2022年7月29日追記 黛灰の物語における加賀美ハヤトの立ち位置について】

前述した加賀美ハヤトについて、最後の配信にて加賀美インダストリアル先代社長(加賀美父)先代が経営していた頃の加賀美インダストリアルが黛灰が2434Systemを使用せずにor再び2434Systemを使用して他のライバーたちの世界と繋がることを可能とする鍵(配信上のメールでの単語に準拠するのであれば「ご都合主義」を可能とする、鈴木勝になる物語における勇気ちひろのような存在)であったことがわかった。
なお、加賀美インダストリアルに先代が存在したのか否か問題については、加賀美ハヤト本人の発言が存在するともしないともとれるものであるためその辺は人によって解釈が変わるところだと思う。(加賀美本人が「自由に想像してね」タイプであるためこれが正解!というものが今すぐ提示されるとも考えにくい。)当方は「加賀美インダストリアルは同社名で存在していた重機系の企業が、企業イベントでディーラー・株主向けにノベルティとして作ったミニカーが反響を呼びホビー事業を展開したのち重機系の頃のノウハウも残しつつホビー事業をメインに舵を切り、加賀美父は社長から会長の座に退きホビー好き加賀美ハヤトが社長に就任したか、ホビー事業を展開した際にヤマハ発動機とヤマハのように暖簾分けをしたか子会社化し、ホビー事業の方に加賀美ハヤトが社長として就任した」と解釈している。
 しかしどの場合であってもあくまで関係があったのは「加賀美ハヤトの父親」と「加賀美ハヤトの父親が社長であった頃の加賀美インダストリアル」であるため「加賀美ハヤト」と「加賀美ハヤトが社長を務めている現在の加賀美インダストリアル」とは関係がないことは留意しておきたい。黛灰の物語において野老山も「他のライバーは関係ないし興味もない」と言っているし、加賀美ハヤト本人も黛との最初で最後のサシコラボで先代のメモについては存在を知っているだけで「この年になると察するものがある」としか言っておらず、内容を知っているとは考えにくい。(黛からメモを見せてくれと言われた後にチラ見している可能性もあるにはあるが)
 とはいえ先代の頃の加賀美インダストリアルが近未来SFのような企業であったのなら、現在の加賀美インダストリアルに開かずの倉庫が存在していてその中で埃を被ったモビルスーツが人知れず眠っていたりしたらいいなぁ、と一オタクは思う。

【リンク一覧】

黛灰の物語 再生リスト

https://youtube.com/playlist?list=PL9RNvrP87_1VSPnS--lUXKWUikkdCVOAw

黛灰に関する所長の記録

https://www.youtube.com/c/MayuzumiX/community

お借りした画像


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