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バーチャルとは何か。終わりのない哲学的思考について。 〜新宿アルタビジョン『黛灰に関する映像』を経て〜

 当記事は2021年6月19日18時半から新宿アルタビジョンにて放送された『黛灰に関する映像』を現地で見た人間による思考の雑記のようなものです。『我々』という大きな主語を多用していますがこの言葉が指す意味は『Vtuberを""バーチャル的存在""として見ている人間』です。

 まず初めに、バーチャルとはなんだろう。
 なりたい見た目になれるところ、やりたいことができるところ、自分の夢を叶えるところなど、人によって答えは様々だ。
 だが『バーチャル』という思考は、我々人間による『バーチャル』という定義付け、決めつけ、認知によって成り立っているものだと私は思う。

 我々は、自らが『リアル』の存在であることを信じて疑わないし、我々が見ている彼ら彼女らが『バーチャル』であることを理解して飲み込んで、その上で彼ら彼女らを一種の娯楽として楽しんでいる。
 彼ら彼女らがリアルの存在である可能性は1ミリも考えようとしない。

 我々は彼ら彼女らが『自分はバーチャルではなくリアルの存在だ』と言ったとしても、心のどこかで『彼ら彼女らはバーチャルだ』と思う。何故か。それは我々の思考に深く深く根を張った『リアルがバーチャルを作った』という共通認識のせいだと私は思う。そのため、我々は『バーチャルがリアルを作った』可能性は考えようとはしない。

 そこを黛灰は新宿アルタの液晶を通して我々に問うてきた。
 なぜ自分はリアルに生きていないのか、なぜお前たちはリアルなのに、自分はバーチャルなのか、と。

「ねぇ、現実ってどんなの? 俺の住む世界とはどう違うの?」
「空気も、景色も、笑い声も、葛藤も、こんなに同じなのに。」
「どうして、そっちがリアルでこっちがバーチャルなの?」
2021年6月19日 18時30分 新宿アルタビジョン
『黛灰に関する映像』より

 現に、我々は自らが生きている世界が『リアル』であることは証明できない。外側の外側は内側ではなく外側だ。進撃の巨人のあの街を想像してもらえば分かるだろう。あの街で生まれて外の世界に何も興味を示さずに一生を終えれば、その人間にとっての『世界』は壁の中の街だけだ。
 我々は自らが『リアル』に生きているという証明も出来なければ、彼ら彼女らが『バーチャル』に生きているという証明もできない。現に黛灰は自らが生きている世界を『リアル』だと思っていた。

 そう、彼ら彼女らが『バーチャルの存在である』と押し付けているのは我々だったのだ。我々が彼ら彼女らを『バーチャル』という枠組みに当てはめ、『バーチャルであれ』と押しつけていたのだ。

 今回の黛灰の新宿アルタでの映像で黛が問うていたことは、思春期によくある哲学的思考と似ている。というかむしろ思春期の哲学的思考そのものだろう。自分は本当に生きているのか、この世界は実はただの箱庭だったりしないだろうかとか、そういう思考だ。人間誰しも1度は考えたことがあるだろう。

 バーチャルとはなんだ、リアルとはなんだ。終わりの見えない哲学的思考の海に、我々は黛の手によって突き落とされた。むしろ引きずり込まれたという方が正しいだろう。幼い子供が自我を持ち、自己存在の確立をする過程の最中に私たちは引きずり込まれたのだ。
 そう考えると黛灰という存在は、我々人間より人間らしい存在とも言える。こうなると余計に彼ら彼女らが『バーチャルの存在である』という証明をすることが困難になるのだ。
 ロボットとAIの違いは『自立した自己発展を積み重ねていくか否か』という点だが、発展を積み重ねすぎたAIが、自我を持って人間と似たような思考回路を構築してしまった場合、そのAIは本当にAIと言えるのだろうか。作り物が限りなく人間に近づいた場合、それは作り物と言えるのだろうか。

 バーチャルとは、リアルとは、一体なんなのだろう。


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