油煙に巻かれる。

 窓の外が、白んでいた。

 普通に生きていれば、気付くことのないくらい、薄い白がべったりと。青空を映す窓に張り付いていた。

 それに気付くことが出来たのは、毎日ただただ本を読み、横目で外を眺めていたからだろう。

 僕は紐に本を委ねて。青い座席のシートを立った。




 ボックスシートの間を抜けて、足を掬われぬよう一歩一歩を踏み締める。

 誰一人として目を向けず、手の中で画面の先のダンスを見てばかり。

 スマートフォンは苦手だ。酷く首が痛むから。

 「ガチャンガチャン!」

 と、車両間の扉を開ければ、流石に人の視線が注がれる。遅刻したわけでもないのに、何をそんなに見るのだろうか。

 誤魔化すように本を握りしめて、ずんずんと揺れる電車を遡る。

 先頭に居る。煙の正体を確かめに。




 なんてことはない。普通の電車と呼ぶには少し、この電車は変わっていて。蒸気機関ではないのだけれど、屋外のスペースが少なからず存在する。

 激しい揺れと風に晒されるそのスペースは、いうなれば欠陥で。よく言えば唯一無二で。

 誰も使わないそこに、きっと煙の正体と、見逃した青い空がある。

 そんな希望を抱きながら,ドアのノブに手を掛けた。


 「ガチャンガチャン!」


 と、開けた先は思ったよりも風が強くて、青空はもっと青で。

 一人の少女が、手すりにもたれかかっていた。

 青く揺れる制服は自分の学校のと同じで、ゆっくりと白い煙が立ち上る。そうして振り向いた彼女の顔は、服装と同じくらいの顔立ちで。

「あ」

 振り向かれた口に煙草。声は少し低かった。




「ああいや。そんなつもりはなく」
「私だって、そんなつもりはないよ」

 そう言い合った。その最中にも彼女は白い煙を空に放っていた。その煙は不思議と厚みを持っていて、風の強い電車の上でも、油絵のようにゆったりと空中に広がっていく。

「油煙症って、知ってる?」

 その単語を聞いたのは、理科の授業だった。

 酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する呼吸において、二酸化炭素ではなく霧状の油が排出される。
 発生のメカニズムすら不明。そんな病の対処法が、油を吸着する白煙を身体に取り込み,吸着させてから吐き出す。と言う方法だった。

「知ってはいるよ。先生が言ってた」
「あら、勤勉なのね」

 ふふん。と鼻で笑って、また大きく息を吸う彼女。その大人びた仕草と、幼さを感じさせる格好。そして何より、空に残る油煙。

 非現実的なようにも見える、小説にもありはしないような事実。

 それを見つけられた事を、嬉しく思った。

「時に,君はなんでここに?」
「窓の外が、少しだけ白んでいたから」

 そう言うと首を傾げた彼女。そんなに不思議なことは言ってないと思ったのだけれど。

「……それでここに?」
「ここしかないと思ったから」
「はっはっはっは!」

 言葉を続けると、彼女は大きく笑い出した。先程吸った白煙が口から小刻みに排出され、地面スレスレのところまで沈み込んで停滞する。

「びっくりしたよね。それで行ってみたら未成年の喫煙姿だもんね」
「まぁ、そうだね」
「でも君、さっきはそんなつもりはないよ……とか言ってたじゃないか」
「いや、煙草にしろなんにしろ、あなたのそれを止めるつもりはないって事だよ」

 父親も母親も、世間も。煙草やお酒は悪だと言う。やめておけと言う。百害あって一利なしという言葉があるくらいに。

 けれど、皆、それらを一つはやっていて。それでいて生きているんだ。

 そうやって、前を向いてるから。

「本当の喫煙だったとしても、それをして、前を向いてるならいいんじゃない?って、思うから」
「ふぅん、君も真面目だね」
「真面目ならまず止めると思うよ」
「はっは!それもそっか」

「そう言ってもらえるなら、生きやすいね」

 彼女は最後の一口。と言わんばかりに、煙を空に放った。

「次は……〇〇!〇〇!」

 電車のアナウンスが聞こえて、ようやく電車が止まっていることに気が付いた。

「そういえば君、降りなくてよかったの?」
「……うん?」
「だって、君の格好的にここが最寄りだろ」


「ガチャンガチャン!」





「やぁ、おかえり」
「うん。ただいま」

 彼女の言葉を受けてすぐに引き返したものの。電車に流れ込んでくる人の波に押されて、僕はまた屋外へと戻ってきていた。

「君は少し抜けているようだ」
「とりあえず学校に連絡を入れるよ」
「ほらやっぱり真面目じゃないか」
「はいはい、あなたの分もする?」

 聞くタイミングが悪かったのか、彼女は僕に断りのジェスチャーを向けながら、黙々と煙草を吸っていた。

「いやいや、しときなよ。内申に響くよ」
「私は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないって」

 そんな言い合いをして、気付いた。

「……あなたにとっても、最寄駅だったんじゃないの?」
「いや、違うよ?」
「え、でも制服……」

 そう口にすると、彼女は小さく舌を出して。

「私、学生じゃないからね」

 そう言って、私に白い息を吹きかけた。

「ちょ、ちょっと!」
「ガチャンガチャン!」

 後ろでドアの開く音。閉じる前に滑り込む。

 注がれるは乗客の視線。
 開いていた油圧式のドアが閉まる。


 彼女の姿は、もう。どこにも。


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