【能】天鼓(渋谷能)
2023年7月28日(金)、渋谷のセルリアンタワーで、2023年度の「渋谷能」第一夜を観てきました。以下、メモを残します。
■渋谷能・セルリアンタワーの能楽堂について
私は、(費用面や地理的な距離から)国立能楽堂に行くことが多く、他の能楽堂にあまり行ったことがありません。
しかし、昨年から「渋谷能」を時々観ることにしています。平日夜に開かれます。30代から40代の若手の能楽師の方々がシテをつとめ、事前講座などで話を伺えるのが大変面白いです。
能楽堂は、渋谷・セルリアンタワータワーの地下にあります。2001年5月に開設された能楽堂だそうで、比較的新しく感じます。(素人が恐縮なのですが)照明も明るく、音響も良いように感じます。
■渋谷能(第一夜)・『天鼓』について
(1)簡単なあらすじ(ネタバレありです)
私は『天鼓』を鑑賞するのは2回目です。2回目でいつもより詞章を読み込んでいたこと、そして、詞章が比較的平易に書かれていることから、理解を深めながら観ることが出来ました。
(2)感想①:ストーリーについて
解説などで皆さん仰るのですが、私もストーリーに、もやっとする部分があります。
少年・天鼓は、帝から鼓を奪われた挙げ句に、呂水に沈められてしまいます。この帝の仕打ちに対し、天鼓も老父・王伯も、愚痴一つ言わないばかりか、自分の行いを責め、追善供養に感謝するのです。内罰的とも言えましょうか。時代背景や作者がどういう立場でこの作品を作ったかにもよりますが、私は、もっと怒りや不満をぶつけてもいいのにと、もやもやした気持ちになりました。
この点、アフタートークにも少し話が出ていたのですが、後場の天鼓の舞は、シテの方の解釈次第で、喜々とした無邪気な舞から、恨みや哀しみを孕んだ舞に変わることもあるのでしょうか。今後、また天鼓を観る機会がありましたら、シテの方の解釈に注目してみたいです。
(3)感想②:老父と少年の演じ分け、家族愛について
今回の上演は宝生流で、シテは髙橋憲正さんでした。
一人のシテが、前場では老父・王伯、後場では少年・天鼓を演じます。
事前講座では、声や息遣いによる役作りについて話が出ていました。私は、謡は本来その人が持った声質で決まるものと思っていた部分があったので、驚きました。「謡宝生」という言葉もあるそうです。宝生流の特徴の一つでしょうか、今後とも注意して聞いていきたいと思います。
なお、本番の舞台では、面や装束に加え、後場の天鼓が足を踏む姿勢に、私は天鼓の少年らしさを感じました。
他方、老父については、詞章の以下の部分が目に止まりました。王伯が帝の勅命を受けて呼び出され、恐る恐る鼓を打とうとする場面です。年老いて足腰が弱っている老父・王伯の姿が目に浮かびます。
帝の勅命という形で、公的な場に晒される王伯と天鼓の親子。公的な「政治権力」である帝の心を、私的な「家族・親子の愛情」が、控えめながらも動かします。家族を犠牲にしてでも忠義を尽くす江戸時代の文楽のような世界もありますが、『天鼓』の世界は、また少し違うようです。
古典芸能の作品を通じて、時代ごとの「政治」や「家族」のあり方、そして両者の関係を考えさせられます。
(4)感想③:小書と鼓の音について
能の曲名の横に表記される「小書」は、特殊演出のことです。今回は、①呼出と②盤渉の小書がつけられていました。
①呼出は、前場で王伯が登場し心情を訴える場面が省略されます。
②盤渉は、雅楽の音階で、後場の天鼓が舞う場面の音階が通常より上がるそうです。水に関係している曲で用いられる演出ともありました。また、通常、太鼓が入るそうですが、宝生流では太鼓が入らないそうで(ここら辺複雑です。)、今回も入っていませんでした。各流派が、どのように出来てきて、どういったポイントの重点を置き、何を目指しているのか、違いの話を聞くことが出来て良かったです。
さて、舞台上では、老父・王伯、そして、少年・天鼓も、鞨鼓台の鼓を叩く場面があります。髙橋さんが鼓を叩くふりをします(実際には叩きません)し、バックからは大鼓・小鼓の囃子の演奏が入りますが髙橋さんが叩こうとするタイミングとは別です。つまり、天鼓の鼓の音は、観客の想像に委ねられているのでしょうか?この辺り、どうなんでしょうね。
■最後に
今回は、事前講座、金子直樹先生の解説、アフタートークと様々な話をお伺いすることが出来ました。これからも、細く長く鑑賞を続けていきたいなと思いました。
何か書き忘れがあるような気もするのですが、本日は以上です。
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