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”人生”に思い悩んだ"あの日"から vol2

価値観がブレ始める

高校二年生の頃から、大好きでやっていた長距離の成績が思うように伸びず、三年生のインターハイで地区予選落ち。努力して成果を出すことが素晴らしい生き方だと考えていた私の価値観は、それ以来、次第に揺らぎ始めたのです。

よくよく、考えてみると「ゲームをやったり、友人と遊んで得られる楽しさ」と「頑張って努力して得られる喜び」どっちが価値があるのか?と問われても根拠立てて「こっちの方が価値がある」と言えないのです。

自らの意思を持って努力し、成果を出すことは、きっと素晴らしいことです。しかし、だからといって「あまり努力とは無縁に、楽しく生きる」人たちが劣等だというのもおかしな話だと思います。むしろ「努力!努力!」と凝り固まるよりも、楽しく生きようとする人の方が、人生を豊かに生きれるはずです。

そうこうしているうちに、私の心の中心にあった「努力して成果をだす。」という考え方は、すっかり心の外に追いやられていました。


思い悩んで見えてくるもの

陸上競技で結果が出ず、やる気を失いかけていた私でしたが、自分の生き方に疑いを持ち始めたことで、さらに身が入らなくなりました。

顧問の先生に、事情を伝えて「1週間ほど休ましてほしい」と願い出ました。しかし先生から休むことを却下されてしまいました。

このまま中途半端に陸上を続けても意味がないと考えていたので、少し強い口調になって「1週間休ましてもらいます。」と言い返し、半分口喧嘩をするような形で私のわがままを通してもらいました。

1週間、悩みに悩んで、自分の価値観について考えました。「どんな価値観を持って生きるのが正解なのか?」「優れた生き方とはどんな生き方なのか?」思い悩んでも納得のいく、生き方や価値観は見つかりませんでした。

仮に「こういう価値観が優れているんだ」と結論が出たとしても、結局のところ、それは私の主観に基づいて決めたことに他なりません。永遠と思考をループするように、「こんな生き方はどうなんだろうか?」と考えついては否定することを繰り返しました。

つまるところ「普遍的に、だれから見ても優れているという価値観・生き方」を持ちたかったのです。価値観や生き方が崩れるのが怖いから、盤石な生き方や価値観を見つけようとしました。

そして、私はあるひとつの結論に至ります。それは

「普遍的に優れたもの価値観や生き方などない」ということでした。


本日はここまで。すてきな週末をお迎えください!


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