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自殺について

最近も、人身事故で鉄道がよく止まる。

通勤している人は大変だなと思う。

前にも書いたが、私が退職した理由の1つは、通勤苦であった。

通勤の辛さ、特に東京の満員電車を経験していない人には、わからないかも知れない。

電車が止まり、満員のホームや車内で途方に暮れる。私は閉所恐怖症気味なので、車内に長く閉じ込められると死にそうな思いをする。


最近は、自殺について語ることにうるさい。

人身事故でも、発生するたびに「自殺者を責めてはいけない」的な言説が流通する。

しかし、これはおかしいのではないか。

まず、自殺は常に同情に値するとは限らない(だれかを苦しめるためや、罪を逃れるための自殺もある)。

現刑法では自殺は犯罪ではないが、基本的には自分に対する殺人であり、宗教によっては今も大罪である。


たしかに、自殺する人は、社会的に弱い立場であった人が多いだろう。それは、同情すべきである。

しかし、自殺する前に「弱者」であっても、自殺した後は必ずしもそうではない。


自殺者にはそれぞれ事情があり、遺書その他で完璧に説明できない限り、真の理由はわからないだろう。

だから、自殺者について安易な憶測で語ってはいけない、というのはその通りだ。

特に、自殺者の名誉を毀損するようなことをあえて言うのは、死者は反論できないという非対称性がある限り、不正であるという。

それも、一般論としてはその通りだ。


しかし、その自殺によって、現に被害を受けた生者は、その被害について自殺者を責めてはいけないのだろうか。

死者は反論できないというが、一方には、死者は生者に対して自ら責任を果たさない、という非対称性がある。

法哲学者の井上達夫は、いかなる理由があったにせよ、自殺が究極のところ「無責任」であることを書いていた。

自己を裁きうるのは他者のみである。自分で自分を裁く者は、他者に裁かれることを回避しているのであり、責任をとったのではなく、責任を回避したのである。

「挫折との付き合い方」『生ける世界の法と哲学』

自殺者は、自殺の前には「弱者」であったかもしれないが、自殺した後は、ある意味、責任から絶対的に逃れた「強者」となる。

実際、自殺による人身事故で、駅や車内で足止めをくらう何万人が感じるのは、そうした「強者」からの暴力への憤懣であって不思議ではない。

特に左翼リベラルは、「弱者に寄り添え」論が好きなので、自殺について自由に語ること自体をタブーにしようとしている感があるが、この場合の「弱者」はどちらなのか、「強者」はどちらなのか、哲学的によく考えてほしいと思う。


自殺について考えるのは、哲学の原点とも言える。なにしろ、ソクラテスが自殺している。

そのソクラテスの自殺は、いわゆる自殺ではない、「名誉ある死の選択」だ、とよく言われる。武士の切腹と同じだ、と。

だが、私は、ほとんどの自殺は「ソクラテスの自殺」と基本的に変わらないのではないかと思う。

激しいイジメや拷問や病苦によって衝動的に自殺に追い込まれる、という場合はやや別かもしれないが、ある程度準備された自殺には、一般に「名誉の選択」の面がある、と私は考えている。

切腹とは「敗北の回避」である、と千葉徳爾は『たたかいの原像』で書いていた。

現実には敗北しているのだが、それを認めたくない者への優しさとして、「自裁」させる。そうすれば、他者に敗北したことにならない、と。それによって、「敗者」が、ある意味「強者」に転生できる。

だから、自殺とは、「責任の回避」であり、「敗北の回避」である。哲学者たちはそう考えてきた。

そこから言えることは、個人が、「責任」と、「敗北」を、無限に受け入れることができたら、自殺はしない、ということだ。

それがいかに難しいか、生身の人間には不可能に近いことを、もちろん私は知っている。

自殺を防ぐために、社会にできることは、個人が背負えないだけの「責任」と「敗北」を、個人に背負わせてはいけない、ということになる。これも、完全に果たそうとすると難しい課題だが、できる限りをしなくてはならない。









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