大人のイヤイヤ期は脱皮が近い証。「衝動」と「自己開示」でいまを考える
大人になってもイヤイヤ期が訪れるなんて。
自分でも驚いている。まさか、こんなにもイヤイヤしちゃうなんて。自己分析の引き金は、スローダウンを目指した自然ど真ん中の暮らしに伴う”旅不足”+若手への権限譲渡と会社の成長に伴う”見守り現場不足状態”なんじゃないかと思う。
なんだろう、この満たされているけれど退屈な感覚。おもしろいけれど、つまらない。8時前後に起きて、0時前後に就寝。犬の散歩、畑仕事、家のDIY、昼は稲穂を眺めて夜は星空を見上げる、七輪で焼いた夏野菜を冷たいビールで流し込む。どれも求めていた理想の生活だ。小さな夢が叶ったと言ってもいい。
それでもこの生活がずっと続くと考えたら「大丈夫かおれ」となる。健康体となって凪のようなメンタルキープを喜びつつも、もっと不安と興奮が入り交じるような魂の揺らぎを求めてしまう。魂が揺らがなければバイブレーションは生まれない。バイブスがなければ、新たな表現は起こらない。
過度な移動生活に疲れを感じて、いまの健康回復大自然ランド(=自宅)」を建てたばかりなのに…!どうなってたんだおれの気持ち!!
端的にいえば、以前と比べて”暇な経営者”になってしまったのだろう。だって年間1/3の出張がほぼないんだから。時間があまって当然。いわば会社をちゃんと育ててしまった弊害だ。Huuuuは、おもしろくて刺激に満ちた仕事を抱えて、社会的な役割としても悪くないことをしている。安心はできれないけれど、心配しすぎない範疇で経済面のバランスもなんとかとれている。
組織体制も未来を見据えた打ち手は尽くしているし、地元の銀行から運転資金を借りたばかりだ。大きな案件がひとつなくなっても、歯を食いしばれば一年は持つ。その上で10期目を追えたら一旦会社を解散する前提で、進むべき道の分岐点を捉えて社内的にも理解してもらっているのだ。
攻守兼ね備えた経営戦略をコツコツ積み上げていった結果、油断はできないがこれまで打ち上げた”徳のセンタリングの数”は、「きっと大丈夫」だと言えてしまう。会社はきっと死にはしない。次なる大きな需要を待ち受けるべく、虎視眈々と牙を研いてきた自負もあるからだ。
なのに!
イヤイヤなのだ。経営者向いてない。オートドライブ状態の会社つまらん。もっと悩み聞きたい。ヒリヒリしてぇ。「まぁまぁまぁ…」って言いながら、酒を酌み交わしてアツい議論とかしたい。限界ギリギリの旅を繰り返しながら、想定もしていない思想を全身で浴びるようなインタビューをしていきたい。いや、これもできるんだろうけど、まだやったことのない領域や土俵を作り上げないと燃えない。
KICK THE CAN CREWのLITTLEが『アンバランス』で歌っていた「安定なんてつまんねーよ」が脳内に鳴り響く。大人の努力と個人の願望を糧に、がむしゃらでやってこし続けた結果、バランス力が高まってしまったのかもしれない。アンバランス最高じゃねーか。心の体幹鍛えられるだろうよ。
あーあ、気づけば新たな退屈を生み出してしまった。「贅沢な悩み」であり、「会社としては健全な状態」なのは大いに理解している。
幸い自己認識ができている。じっくり休めた証でもあるし、自然の中での暮らしに数ヶ月向き合えた喜びと体感は今後の糧となるのは間違いない。むしろこの健康回復大自然ランドを軸足としながら、今後どの方向にエネルギーを割いていけばいいのか?のシンプルな話でもある。
自然を眺めてボーッとしながら過ごした充足の時間を経て「このままじゃイヤだ」のイヤイヤ期を迎えたといっていい。このあと、2歳児のようにむくむくと自我が形成されて、新たな自分がオギャーと誕生すれば万事OK。新たな走り方を覚える前に、二足歩行の喜びから「歩いて移動するのおもしろ」の好奇心の初期衝動をプレイバックしたくなる。
きっと40歳の年齢も大きいと思う。身体的な衰えやテストステロンの低下、感情の棘を隠しておおらかなおじさんを演じる副作用、自己認識と行動力の乖離などなど、ただの刺激を追い求めていけばいいわけではない。
これまでと違った歩き方、走り方を覚えよう。どこに向かって走るのか。なんのために走るのか。人生の折り返し地点に立ったことで発生した悩みなのかもしれないが、急に思い立って長野から小田原まで新幹線で向かってる道中でこのnoteを書き上げたことが救いだ。思えば文章を深夜に書き続けたのも衝動だし、独立して会社を作ったのも衝動だ。
昨年出版した『おまえの俺を教えてくれ』はこれまでの衝動を自己開示とともに詰め込んだフルフルに震えた自分そのものだ。これの反動はあまりにもでかい。心に大きな割れ目ができていると思う。年末年始の休み中に軽いうつ的な動機に見舞われて「やばいやばい」となんとかセルフケアで乗り切ったけれど、夏休みきっかけでまた割れた。ナチュラルかつネイチャーすぎる営みで割れ目を埋めていたつもりだったが、ちょっと違ったようだ。
おれは人と土地の歪なエネルギーに触れて、おもしろがることでしか世界と繋がることができない。そのために編集者の仮面をかぶって、土地土地に入り込んで誰かの言葉を浴び続けている。めぐるめくダイナミックな人生の大渦に巻き込まれて、洗濯機にかけたように感情がぐちゃぐちゃになるのが大好きだ。びしょ濡れのままのときもあれば、乾燥ボタンひとつでカラっとした気持ちで明日を迎えることもある。
まだ自然の暮らしだけで己を満たすには健全すぎる。いかがわしいぐらいの雰囲気をまといながら、命のろうそくが強風で消えかけてしまうような瞬間の景色をもっと目に焼きつけたい。そのためには、この言葉にできないようなイヤイヤ期をやり過ごすべく、また折り合いをつけながら旅に出ないといけないのだろう。
前言撤回。暮らしもやるけれど、旅もやる。